俺が中学生のときだった。
いじめられっこだった俺は、夏休みになると祖母の住む田舎に帰省していた。
山に囲まれたA野という地区で、もともと俺の家族も暮らしていた。
だが母と祖母の仲が悪く、特に祖母が母の自分勝手な性格を嫌っていたのが
大きな原因で、ついに耐えきれなくなった母は引っ越すことを決意した。
だが自分の都合で我が子を振りまわすことに懸念を覚えたのか、当時、
いじめられていると誰にもいえなかった俺の気持ちを、見当違いに推し量り、
慣れ親しんだ学校を離れずに済むようにと、引っ越し先は山を一つ越えた隣の街になった。
(父は務めている会社も隣街だったし母のストレスも考えて承諾した)
今まで十分だった通学時間は三十分に延びたが、これでもまだ近い方だろう。
そして、いつも通りに自転車を漕ぎ、左右を木々が占領する道路を
十五分くらいかけて突き進むと、以前の我が家である民家に到着した。
孫の顔を見れて喜ぶ祖母は、母がいなくなって清々したことを俺の前で呟きながら、
張り切って畑仕事にいき、俺は居間のテレビを見る日々を過ごした。
裏にある深い森も、夏の風物詩であるセミの鳴き声を轟かせていた。
ただ、その森――B山には、古から残り続ける、ある伝承があった。
逢魔時になると鬼が出る、というものだった。
記憶が曖昧なので要点だけつかせてもらうと、大昔、この土地には鬼が住んでおり、
B山の頂上を拠点に悪行を繰り返していた。貧困で困り果てた地元民は窮状を百姓に訴えると、
腕の立つ用心棒を出向かせて鬼を討ったという伝説だ。
(大まかな骨格としては温羅伝説に似ている)
そしてB山を拠点としていた鬼は、討たれたことで悪霊と化し、
魑魅魍魎となって現れると云われていたのだ。
だが、A野で暮らす人たちは、若い世代になるにつれてその伝説を、
早く寝ない子には鬼が食べにくるぞなどと、子どもの躾けにかこつけることが多かった。
反対に、個人で山を持つ年配者の間では目撃談が飛び交い、鬼の存在を信じ怯えていた。
元来霊感の強かった祖母ももちろん鬼について語っており、お盆や真夜中になる霊が何とか盛り塩がどうたら騒ぎたて、母とにらみ合っていたし、
A野の古い神社へお札を受け取りにいくこともあった。
そういった祖母の行動から、俺は幼いながらに鬼を信じていた。
逢魔時にB山へ立ち入ることもしなかった。
さらに、神社には神隠しを退けた人物の遺骨を保管している
というオカルト染みた事実も手伝って、ますます俺の信仰に拍車をかけた。
だが、中学生にもなると、俺は疑い深くなりネットの影響もあって
それらのことを信じなくなっていた。
祖母はそのことを承知していたらしく、帰省した途端入念に、
「あの森には近づくな、あそこは異界が開けている。いるのはただの鬼ではない」
と忠告を繰り返したが、俺の中二心を刺激したに過ぎなかった。
それに俺は他の目的もあって、鬼伝説が残るB山に入るつもりでいた。
俺は玄関を出た。
祖母は畑仕事に熱中していた。
そして家の庭には倉があった。
祖母が集めた魔除けグッズを保管している倉だった。
幸いなことに森の入り口と、それが一直線に見える畑の間に建っていて、
俺の姿を遮り、祖母は森へ立ち入った俺に気が付いていなかった。
俺は自宅から持ってきた重いリュックサックを背負って山道を歩いた。
夕方までには程遠く、逢魔時になる前には、家に戻ることができるはずだった――
小学生の時、日中に何度も遊んだことのあるB山は相変わらず、
木の葉が重なり合い、太陽の光を遮って僅かな木漏れ日を落としていた。
日が落ちれば静寂と闇が支配し、あらゆる気配を際立たせる。
三つの河川の堆積によりできた大規模な平野や、有数の山岳地帯がある地方の為、
高い位置まで上ると似たような山々や地形を眺めることができた。
俺は周囲を見回しながらそんなことを想起して、
セミの大合唱を鬱陶しく思いながらもしばらく歩きつづけた。
そして、一瞬目について、ふと、また気になった大木の前に俺は立った。
その木が俺の目的に見合ったものだと判断したからだ。
次にリュックを地面に降ろすと、中から数本の釘や金づち、
人型につくった粘土を取り出した。
俺の目的は呪いの実行だった。
今のご時世、大抵のことはググれば解決する世の中であるから、インターネットで情報を集めたのだ。
ターゲットはいわずもがな俺を虐めていたT、N、Uの三人だ。
俺はメモしていた手順を確認しながら準備を進めていった。
実行は真夜中だった。
だが、俺の選んだ方法は手間のかかるもので、暗闇の中作業をするのは効率が悪く、
明るいうちに済ませ、あとは人型の粘土に釘を打つだけ、にしておきたかった。
用意した紙片に三人の名前を書き、採取しておいた髪の毛
(うまくいかずTの髪の毛しか取れなかった)を粘土に仕込ませる。
指に付着した白い粉をズボンで拭きながら俺は淡々とこなしていった。
次に俺は木に近づいて釘が打ちやすいか試してみた。
少し力がいるが、容易に粘土を貫いて怨念と共に大木へとつなぎとめることだろう。
俺が眼間の木の幹から体を離した時、視界の異変を感じて固まった。
辺りが暗くなっている。
俺の背筋が凍った。
太陽はまだ高い位置にあったはずだった。
よほど葉の量が多く陽光を遮断しているのかとも思ったが、
上を見ればちゃんと隙間があり、薄暗い空には点々とした星がある。
先ほどまで響いていたセミの鳴き声もやんでいた。
携帯で時刻を確認すると十九時を回っていた。
森に入ったのが十四時くらいだった。すると五時間経過したことになる。
おかしすぎる。せいぜい数十分しか経っていないはずだ。俺は改めて周囲を覗う。
それは日も暮れて闇夜に移り変わる、れっきとした逢魔時であった。
俺は祖母の言っていたあの森は異界へ通じておる、
という言葉を思い起こしてゾッとした。
準備もある程度終えていたので、俺はそそくさと道具を片付けると、
リュックを背負った。
早く森を抜けなければならない、祖母の忠告を信じていなかった俺だったが、
いつの間にかそう思っていた。
真夜中にはまた訪れる場所だ。その時は逢魔時ではないし、
憎しみが恐怖を凌駕していたので、決行する決意は揺らいでいなかった。
俺の中で、だんだん祖母に怒られることに不安を覚え始めていたとき、
ふと声をかけられた。
ありえない出来事に俺は飛び上がりそうになった。
声のした方を見ると、木々の間に少女が立っていた。
薄いワンピースを着ていて、俺と同世代くらいだった。
暗闇に溶け込む黒髪はまっすぐに垂れ下がり、
肌は彼女を包み込む黒に相反して真っ白だった。
それが不気味さを際立たせている。
「それは呪具?」
透き通った声色だった。
俺はドキマギしてしまい、コクリと頷くことしかできなかった。
不覚ながら俺のタイプの顔をしていたのだ。
俺は少女に質問されて、リュックを見やったが、おや? と思った。
確かにこの中には釘や粘土が入っているが、それらが見えるはずがないのだ。
もしかしたら彼女は俺が呪いの準備をしているところを見ていたのかもしれない。
少し恥ずかしくなってくる。
俺は早く帰路につきたかったが、少女の名前くらい聞いておこうと、
思い切って尋ねてみた。
すると彼女は、
「わたし」と呟いた。
俺は理解できずに、もう一度訊きかえしたがまた、
「わたし」としかいわなかった。
彼女の名前は、わたしというらしかった。
もともとこの田舎は俺の地元だ。誰が住んでいるのか、
ある程度把握している。
だがわたしという名前の女の子は聞いたことがなかったし見たこともなかった。
知らない間に引っ越してきた子なんだろうか。
それにしても一人称が名前だとは到底信じられなかった。
俺はニックネームなんだと勝手に判断していた。
「いい目をしているわね」
彼女(以後彼女で統一)は唐突にいった。
そして一方的に、
「誰かを呪いたいの?」と続ける。
俺はふと、彼女の枝のような腕に目がいった。
そこには繊細な肌に似つかない赤黒い痣が刻まれていた。
俺は己の背中にある赤い痣を頭に浮かべた。
このとき、この子も俺と同じ境遇なのだろうかと予想した。
同級生にいじめられて、誰にも相談できず、たった一人で立ち向かっている。
俺は自然に口を開いていた。
「TとNとUって奴がいるんだけど、そいつらを呪ってやるつもりなんだ」
初対面の人間に対して発する言葉ではなかったが、俺はその前の経緯なども、
何故か滔々と話していた。
聞き終えた彼女はいった。
「あなたは頭が悪そうね」
「え」
俺は拍子抜けしてしまった。
てっきり同情や同調してくれると思っていたからだ。
でも確かに俺は成績もよくないし、話のまとまりもなかったように思うから否定もできなかった。
「協力してあげようか」
だから彼女がそう提案してきたとき、俺はまたひどく驚いた。
俺は半ばこの子と仲よくなりたいと思っていた。
顔もタイプだし、口が悪いところもあるけれど、共通の話題を持ちたくて、俺は頷いていた。
彼女は俺を見つめ続けていた。
「約束したわね。じゃあ、その呪具はいらないわ。そもそもあなたがやろうとしている呪いはデタラメよ、効果なんてない。だから、この箱をわたすわ」
彼女は俺に、手のひらサイズの箱をわたした。
表面に紋様のような線が刻まれている重い箱だった。
「呪いたい相手の一部をこの箱に入れて。決して自分の物は入れてはだめよ」
俺は呪いの際に必要だった、Tの髪の毛を包んであるハンカチを取り出した。
Nの制服についていた抜け毛を何本か拝借したのだ。(俺はそのとき勘違いされてTに殴られてしまったが)
彼女の指示通りに箱の蓋を開けて、その一本を入れる。
「これで呪いが実行される、んですか?」
「そう」
俺は箱を凝視した。
また疑問が湧いてきて質問しようと俺が目線をあげると、わたしの姿は忽然と消えていた。
帰ったのは二十時を回っていて、祖母にこっぴどく叱られた。
帰りが遅いことの他に、B山から出てくるところを見られていたため、説教は長時間にわたった。
「それで、会ったのか?」
「な、何に?」
「鬼じゃ」
俺は首を振った。
実際は少女に出会ったが、余計なことをいうとまた怒られると思って黙っていた。
「もし鬼と出会っても話してはならんぞ」
祖母は俺を覗き込むようにしていった。
俺はその後引っ越してからもそのままにしてある自分の部屋に行き、リュックに入れていた箱をベットの上に置いた。
その箱は西洋に出回っている骨董品にも見えた。
俺は正直こんなもので呪えるはずがないと思っていた。
彼女の悪戯なら、まんまと乗せられた形だ。
しかしかわいい女の子に騙されるのも悪い気分はしなかったのだ。
あの三人を呪う時間はいくらでもあるし、NとUの髪の毛も採取しなくてはならない。
大木にも準備を施したままだ。準備もしたのだし、最後まで成し遂げたかった。
俺はそのまま眠りについた。
次の日、俺は再び森へ行こうと画策した。
もしかしたらあのわたしという少女が来ているかもしれないと考えたからだ。
今度は箱をポケットに入れて玄関を出た。
太陽は高く、夕方までやはり余裕はある。
しかし昨日のようにいつの間にか日が沈んでいるとも限らなかったが、中学生だった俺の好奇心をとめる理由にはならなかった。
そうと決まったら行動するのみだ。
そして、家を囲む塀の入り口まできたときだった。
視界に黒い点が映った。俺は違和感を覚えて目をこらした。
俺の家の前にはいくつかの田んぼが隣り合っている。
間には小道が走り、十字にわかれた箇所もある。
その十字路の中央だった。
「犬だ」
真っ黒い犬が佇んでいた。
遠くの方だったので、細部まで確認できなかったが、犬の形であることに間違いない。
誰かの飼い犬だろうかと思った。
だが不思議なことにその犬は、普通の犬がやるように舌をだしてしきりに呼吸するのではなく、口をきっかり閉じたまま、じっとこちらを凝視していた。
俺は急に寒気がして足早に森へ向かった。
だが寸でのところで慌てた様子の祖母の声が聞こえた。
俺は冷や汗をかいて、すぐさま引き返す。
「ど、どうしたの?」
「大変じゃ」
「何が」
「お前のとこの同級生な」
誰だろうと思った。
「名前は?」
「うー、確かTとかいっていた」
箱に髪の毛をいれた奴だ。
「Tが何?」
俺はぶっきらぼうにいった。
「死んだ」
「!」俺は言葉を失った。