881 :眠り稲1:2006/03/07(火) 21:42:27 ID:XB7qWc/mO
祖父が未だ子供の頃の話。
その頃の祖父は毎年夏休みになると、
祖父の兄と祖父の祖父母が暮らす、田園豊かな山麓の村に、両親と行っていたのだという。
その年も祖父は農村へ行き、遊びを良く知っている当時小学校高学年の兄と、
毎日毎日、朝から日が暮れるまで遊んでいた。
ある日、田んぼ沿いの道を、兄と虫網を持ちながら歩いていた。
幼かった祖父は、眼前に広がる見事な青々とした稲達に感動して、
思わず「すげえ。これ、全部が米になるんか」と声に出してしまったのだ。
すると「そうじゃ。この村の皆が一年間食べる分じゃ」と言いながら、祖父の麦わら帽子に手を置いた。
しばらく二人でその景観を見ていると、不意に兄が口を開いた。
「なあ、健次(祖父の名前)。『眠り稲を起こすな』って知っとるか?」
突然の質問に祖父は戸惑いながらも、首を左右に振った。
「『眠り稲』は、この村に伝わる合言葉みたいな物でな。
『稲が眠ったみたく穂を垂れても、病気じゃないから変に心配はせんでいい』っちゅう意味らしいんじゃ」
「へえ」と、祖父は驚きと納得が混ざった様な返事をする。
この稲が全部眠る事があるのかと思うと、なんとも言えぬ不思議な気分になったという。
882 :眠り稲2:2006/03/07(火) 21:43:15 ID:XB7qWc/mO
その夜、晩飯を食い終わり、祖父が縁側で心地よい満腹感を感じていた時、不意に兄から声がかかった。
「健次、花火せんか?」
振り向くと、大きな袋を掲げた兄が立っている。
祖父はすぐに「うん」と返事をした。
この年の子供達は、家の中では常に退屈している様な物である。
二人は履物をつっ掛け、「ぼちぼち暗なってきたから、気ぃ付けえや」の声を背に、外へ出て行った。
田んぼ沿いの道を、花火を持ちながら歩く。
赤や黄の火花に見とれながら、度々着火の為に止まる。
そのまま一帯を散歩しようかとなっていた時だった。
祖父が特別大きい花火を喜んで振り回していたら、近くの民家の窓が開き、祖父さんが怒鳴った。
「くらあ!餓鬼共!そないな物振り回して、稲が燃えて駄目になりでもしたらどないしてくれる!」
いきなり知らない大人に怒鳴られて、祖父は勿論、兄もびっくりし、涙目になって逃げだしたという。
祖父は今でも、家に帰り着いてから兄が、
「糞親父。今に見とき」と呟いたのを覚えているという。
883 :眠り稲3:2006/03/07(火) 21:44:03 ID:XB7qWc/mO
――深夜、祖父は自分を呼ぶ声で目を覚ます。
目を開けると、徐々に輪郭を持ち始める闇の中に、兄の顔が見えたという。
「なあ、面白い事考えたんじゃ」
一体何をこんな夜中に思い付いたのだろう。
「今からあの糞親父の田んぼ行って、案山子を引っこ抜いたるんじゃ。健次も来るか?」
祖父は余りに驚き、必死で首を振って拒否した。
「そうか、行かんか。それでもええんじゃ。けだし、大人達には俺じゃって事、ばらしてくれるなよ?」
祖父は頷いた。
兄は一人で行って来るのだろうか?
兄が部屋を出て行く気配を感じたのを最後に、また祖父は深い眠りに落ちて行った。
――翌朝。
何か悪い夢を見た気がする。
祖父は目を擦りながら、家族が待つであろう一階へ降りた。
異様に静かだ。というより、誰もいない。
祖父は嫌な予感がした。
兄が取っ捕まったのじゃないだろうか?
寝間着のまま急いでわらじを履いて、外へ駆け出した。
田んぼ沿いの道を走る。
やがて例の農家が近付くと、異様な人だかりが見えた。
嫌な予感はますます強まり、人だかりを必死でかき分けて、祖父は田んぼを見たという。
884 :眠り稲3:2006/03/07(火) 21:44:47 ID:XB7qWc/mO
――そこには、案山子があった。
いや、それは兄だった。
両足を田んぼの泥に突っ込み、両手をバランスでも取る様に水平にしている。
口からは涎が垂れ、目の焦点はあってない。
「兄やん……?」
祖父はそう言うのがやっとだった。
家族は兄を家に引きずる様にして連れ帰り、深刻な顔で話始めた。
「眠り稲を起こしよったな…」
「あれは気が触れてしまってるのう…」
幼い祖父には、なんの事か分からない。
結局祖父には何も分からないまま、その年は早く地元へ帰り、
もう毎年兄の住む農村に帰る事はなくなったという。
『眠り稲を起こすな』
この言葉の真意を祖父が知ったのは、兄の葬儀の為に最後に農村へ帰った時。
これが意味するのは、決して稲が穂を垂れても~という事じゃない。
『草木も眠る丑三つ時、田んぼに行ってはならない』という、村の暗黙の了解の様な物だったのだ。
丑三つ時の田んぼに行った兄。
タブーを犯してしまった兄に、あの夜何が起こったのかは分からない。
もしかすると、化け物に襲われたのかもしれない。
とにかく、人間には想像すらできない様な正体を持つ伝承は、
日本のあちこちに、ひっそりと息を潜めているのだという。