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【師匠シリーズ】食べる

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768 :食べる  ◆oJUBn2VTGE:2011/08/21(日) 00:49:09.63 ID:i1MYcoGY0
「狗(ク)という字はね、キツネとも読むんだ。とっても古い読み方だね。でもこの天狗は日本で生まれたものじゃない。中国の古い書物にもその姿が見える。紀元前にできた『山海経(せんがいきょう)』という本には、天狗の正体は火の球である、とでている。
『史記』では、流星のようだが、地上に降りては狗(キツネ)に似ていて、炎を発するとしている。……どうかな。鼻が高い赤ら顔の山伏と全然違うだろう。日本には天狗神社という神社がたくさんあるけど、そこに祀られている天狗は猿田彦という神様の分霊だよ。
鼻の高い神様だ。その鼻の高いところが鎌倉期以降の天狗に通じるから同一視されたんだね。酷い話だ。慢心で鼻の伸びた仏教のカタキ役が神道の神様になっちゃった。元はといえばキツネが化けていたんだよ」
大げさな抑揚で言う。ジジジ……と電球が嫌な音を立てる。おじさんが一歩前に出た。思わず一歩下がる。
「でも、本当はキツネでもないんだ。キツネに似ている流星のような火の球なんだから。ハレー彗星を知ってるかな。もう少ししたら地球にやってくる彗星だ。別名、天狗星とも言うよ。彗星や流星全般をさす言葉でもある。ここに昔の名残があるね。
それから『五雑俎』という古い中国の本がある。五つの雑なマナ板という字をあてる本だ。そこでは天狗星が落ちたあとに見つかるケモノを『天狗』と称している」
おじさんが目を輝かせてまた一歩前に出た。ごくりと唾を飲みながらまた一歩下がる。
「分かってきたかな。ボクのいいたいことが。沼に落ちたという天狗を祀っていた神社の口伝はこう言っていたね。『その姿、いかなる獣にも似ず』って。つまりなんだか分からないと言ってるんだ。
だからこれは次々と変化していくそんな『天狗』という言葉のイメージに塗り重ねられた寓話的存在ではなく、真実の姿を描写しているのではないか。と、そう思うんだよ」
想像してごらん。
おじさんは静かに言った。
「千年以上昔の素朴な農村の外れ。沼がちな土地に、あるとき静寂を破って天を切り裂く光が降り注いだ」
薄暗い地下室の天井に光が走った気がした。

769 :食べる  ◆oJUBn2VTGE:2011/08/21(日) 00:53:01.67 ID:i1MYcoGY0
「轟音とともに巨大な火の球が降ってくるんだ。恐ろしい天変地異に粗末な麻の服を着た村人は逃げ惑った。やがて火の球は地上に激突し、地面を抉り、沼の水を一瞬で蒸発させ、荒ぶるキツネ火のように炎が大地を這い回った。
そしていつしか炎は消え、人々が恐る恐る近づいていくと、地形が変わるほどの途方もない衝撃があったことを示す痕跡の中に、火の球の残骸のようなものが散らばっている。その中に人々は傷ついた獣の姿を見た。
肌は青黒く、痩せていて、鳴き声は雉のようだった。得体の知れない獣を捕らえた人々は在郷の有識者階級であった神社の宮司に問うた。これは一体なんであるか、と。宮司は神話になぞらえて言った。『流星ニ非ズ、是レ天狗(アマキツネ)ナリ』」
そして……
おじさんはツボに視線を落とす。ザラザラした膨らみをゆっくりと撫でている。
「空から、火を吹く球に乗って落ちてきた異邦の生物は、村の人々によって塩漬けにされた。どうして保存しようとしたか、それは分からない。塩漬けにされた生物の身体はその神社に祀られ、代々の宮司に受け継がれる。
年月が経ち、やがて人魚の肉の伝説のように、その肉を食すれば身の内に霊力が宿るという噂が生まれた。それを聞きつけた土地の領主に一部が献上されたこともあったそうだよ。
鎌倉、室町、江戸、明治と時代は下り、アマキツネはテングになり、やがてこの天狗の肉は宮司一族と一部の氏子衆だけが知る秘密の御神体として口伝で継承されてきた。僕がどうやってそれを手に入れたかは秘密だよ」
紐を取り払い、ツボの口を覆う布をそろそろとずらしていく。
わたしはそのツボから視線を逸らすことができない。

770 :食べる  ◆oJUBn2VTGE:2011/08/21(日) 00:55:04.06 ID:i1MYcoGY0
「日本の神話や民話には妖怪や鬼神などの恐るべき力を持った存在を食することでその力を取り込むという話がいくつか見られる。それ自体はさほど珍しいものじゃない。
でもね。この天狗の肉を食べることで身の内に宿る霊力とされるのは、人魚の肉と同じく不老長寿の力だというんだ。ここが面白いところでね。古今、天狗の肉を食して不老長寿を得るという伝説はほとんど聞かない。
そもそも天狗は人魚よりもはるかに恐ろしい力を持つ存在だ。天狗だおし、天狗つぶて、天狗さらい、天狗わらい…… 人知の及ばない怪異の象徴である天狗を打ち倒し、食するという発想がそもそもないんだ。天敵の密教坊主は戒律で肉食ができないしね。
ところが、この神社に祀られる天狗はそんな後世の天狗ではなく、本当はアマキツネだ。如何なる獣にも似ず、雉のような声を発する生物。天狗だからこういう姿で現れたわけではなく、こういう現れ方をしたからアマキツネと呼ばれた。これは演繹法ではなく、帰納法だよ」
なんだかわけがわからなくなり、ドキドキしているわたしにおじさんは笑いかけた。
「さあ。約束のおいしい食べ物だよ」
そう言って布を取り、ツボの中に片方の手を突っ込む。そして肉がブツリと千切れる微かな音が聞こえた。
ツボから引き抜かれたその指先に、どす黒いなにかが摘まれている。
差し出されたそれを正視できず、思わず顔を背けた。
「大丈夫だよ。古くたってしっかりと塩漬けされてるから、まだ食べられるよ。塩辛いけど」
そう言っておじさんは自分の口元に指を這わせ、肉片のようなものを噛んだ。
クチャクチャと、わたしにも聞こえるように。
その瞬間、ぶるぶるとおじさんの顔全体に細かい痙攣が走った。ほんの数秒だったが、その間おじさんの目玉も小刻みに動いたのが見えた。
「こんなに、おいしいのに」
顔の痙攣が止まっても目玉はあっちこっちに動き続けている。わたしはどうしようもなく怖くなり、後ずさる。

774 :食べる  ラスト  ◆oJUBn2VTGE:2011/08/21(日) 01:01:33.96 ID:i1MYcoGY0
「話が途中だったね。帰納法。帰納法なんだよ。天狗の肉だから不老長寿なんじゃない。宮司たちの観察の結果、この肉を食べれば不老長寿が得られると、そう思われたんだ」
目玉は震えているけれど、おじさんの声はしっかりしていた。ただ途方もない狂気を孕んで。
後ずさるだけ、近寄ってくる。ツボを抱えたまま。
「フレイザーの言う類感呪術だよ。類似したものには類似した力が宿る。観察だ。観察されたんだ。帰納法なんだ。類似したものは相互に影響を及ぼしあう。夫婦仲を良くしたければ、オシドリを食すればいい。子宝に恵まれたければ、子宝に恵まれた女性を食すればいい。
食べることはもっとも原初的で純粋な呪術だ」
じりじりと近づいてくる。
ツボにもう一度片手が差し入れられる。
ぶつり。
肉が千切れる嫌な音。頭がかってにその音を何度も何度も再生する。
黒いもの。嫌なもの。恐ろしいものが、その指に握られている。
差し出されるそれを避けようと仰け反るが、硬いものが背中に当たる。本棚でコの字型に囲われた窪みにわたしはいた。奥の本棚に背中を押し当て、それ以上下がれない私は、どうしようどうしようと、そればかり頭の中で繰り返していた。
そして、その時、聞いてしまったのだ。
おじさんの腕に抱えられたツボの中から。
Ku…………
小さな、うめき声を。

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