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【師匠シリーズ】なぞなぞ

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4 :なぞなぞ  ◆oJUBn2VTGE:2010/08/21(土) 00:28:51 ID:8knY+Ox40
とおどけてみせるのを、俺は久しぶりにゾクゾクした気持ちで見つめていた。
「怖いですね」
完全に怪談だ。なぞなぞおじさんという七不思議に出てくる存在が、自分自身とは別個のもののように立ち現れている。まるで……
そこまで考えたとき、ハッとして横に座る人の顔を見た。
この人の周囲には、「それ」が多すぎる。
かつての自分の体験を記憶の底から呼び覚まそうとして、一瞬意識がこの場所から離れた。
その時だ。
俺の耳は子どもの声を拾った。ぐずるような声。近い。
ゾクリとしてジャングルジムに視線をやる。その中にさっきまでいなかったはずの子どもの姿を見てしまう気がして顔が強張る。
一秒、二秒、三秒……
俺のその様子を見てその人も緊張したようだったが、やがて俺がなにを考えたか分かったようで苦笑する。
ああ、そうか。
俺はあえて見えない振りをしていたのだ。冷静になれば、なにも怪談話などではないのに。
照れくさくなり、「ちょっとトイレに」と言って立ち上がる。
「あっちにある」
指で示された方へ歩くことしばし。小ぎれいな公衆トイレを見つけて用を足し、俺はその場で考えた。
行ってみるか。
トイレの前にはC棟という刻印がされたクリーム色の壁がある。A棟は近い。挙動不審に見られない程度にキョロキョロしながら何色かに色分けされた舗装レンガの上を歩き、Aの刻印のある巨大な建物の前に立つ。
玄関でのセキュリティーはなかったので堂々と正面から入り込み、エレベーターに乗る。「7」を押すと、途中で止まることもなく目的地で扉が開いた。
平日の昼ひなか。太陽の角度の関係か、妙にひんやりした空気が漂っている廊下に出る。
静かだ。ここまで住民の誰とも出会わなかった。

6 :なぞなぞ  ◆oJUBn2VTGE:2010/08/21(土) 00:34:32 ID:8knY+Ox40
702号室は端の方だ。壁と良く似た色のドアが並んでいるのを横目で見ながら歩き、やがて702の表示を見つける。
ドアの両脇の壁に、自分で取り付けたのか、プラスチックの板があった。
『こどもたちのために禁煙を』
『喫煙は決められた場所で』
そんな活字が黒く刻まれている。
なぞなぞおじさんはどうやら、禁煙運動だか嫌煙運動だかをこの団地で推進している人らしい。団地の集会では、お母さんたちからは支持され、お父さん連中からは煙たがられているに違いない。
俺は小さく笑ってドアをノックする。
しばらく待っても反応はない。やはり仕事に出ているらしい。
ドアノブの横、下目の位置に横長の郵便受けの口がある。色は銀色。軽く屈んで右手の親指で押してみる。覗き込んでも部屋の中は見えない。ドアの内側に郵便物を受けるカバーがあるのだ。
少し大きめの声で言う。
「おじさん、おじさん、ヘビースモーカーがある朝急に禁煙したのはな~ぜだ?」
篭った声がそれでもカバーの向こう側に漏れて行くのが分かる。
けれど室内から人の気配はなく、なぞなぞに答える声もなかった。
しばらく待つ。静寂が耳に響く。耳鳴りがやって来そうで身構えているが、いつまで経ってもそれは来なかった。
カタリと郵便受けから指を離し、702号室を後にする。
一度廊下で振り返ったが、ほんの少しドアが開きかけている、なんてことはなかった。
A棟の玄関に降り立ち、出来るだけ遠回りして戻ろうと、来た方向の逆へ足を向ける。
なんとか迷わずに元の公園に戻ってくると、その人は逆方向から来た俺に、あれ? という表情をして、そしてすぐにニコリと笑った。
「気をつかわせたな」
ちょうど胸元をしまうところだった。
胸に抱いた赤ん坊はさっきまでぐずりかけていたのに、今は満足そうな顔で目を閉じている。赤ん坊の口をハンカチで軽く拭き、その人は俺に笑いかける。

7 :なぞなぞ ラスト  ◆oJUBn2VTGE:2010/08/21(土) 00:39:46 ID:8knY+Ox40
「家に寄って行かないか」
その提案に一瞬迷ってから、遠慮をした。「友だちがもう迎えに来ますから」
「そうか、残念だな」とさほど残念そうでもなく言うと、その人は赤ん坊に向かって、「あぶぶ」と口をすぼめて見せた。
俺は、もう行って来ましたよ、と口の中で呟く。そうしながら、三桁の番号が印字された鍵があのタイミングでポケットから落ちたのは偶然なのかどうか考えている。
やがてその夢想も曖昧なままどこかに消え、ただ冬の合間に差し込まれた柔らかい小春日和の公園に立っている。
小春日和にあたる季節を、アメリカではインディアン・サマーと言うらしい。寒さの本格的な到来の前にぽっかりと訪れる、冬に向けた準備のための暖かな時間。春でも大げさだと思うが、夏とは凄い例えだ。
その時、ふいに思ったのだ。
数年前、人のいないプールで始まった自分の夏が、終わってしまったのはいつだろうかと。
思えば、ずっと夏だった。秋も、冬も、春も、またやって来た夏も。見たもの聞いたもの、やることなすこと、なにもかも無茶苦茶で、無茶苦茶なままずっと夏だった気がする。山の中に身を伏せて虫の音を聞いた秋も。寒さに震えた冬の夜の海辺でさえ。
やがて、別の世界に通じる扉がひとつ、ひとつと閉じて行き、気がつけば長かった夏も終わっていた。
『夏への扉』という小説がある。
その中でピートという猫は、十一もある家の外へ通じる扉を飼い主である主人公に次々と開けさせる。扉の向こうが冬であることに不満で、夏の世界へ通じる扉を探して主人公を急かすのだ。
何度寒さに失望しても、少なくともどれかひとつは夏への扉であると疑わずに。
俺は失望はしていない。そんな別の世界へ通じる扉などない方がいいということはよく分かっているからだ。
ただそのころ垣間見た、ありえない世界の景色に今さら感傷を覚えることはある。そんな傷が、胸に微かな痛みをもたらすのだろうか。
「じゃあ、さようなら」
手を振って公園を出る。
その人はベンチから立ち上がり、こちらを見送っている。
これからその人が帰る扉の向こうには、ありふれた生活があるのだろう。七不思議の世界などではなく。
俺はもう一度さようならと呟いて、歩きながらゆっくりと背を向けた。
小春日和のベンチと、ずっと抱いていた遠く仄かな輝きと、そしてかつて愛した夏への扉に。

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