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【師匠シリーズ】刀

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359 :刀  ◆oJUBn2VTGE:2009/10/02(金) 23:31:23 ID:o7OYvvFV0
彼を包むその感情は落胆ではない。絶望? 違う。なんだろう。とても懐かしい感じ。親しみのある感情。
目を、逸らしたくなるような。
……恐怖。
恐怖ではないか。これは。
そう思った瞬間、寒気に襲われた。
わああああああん。
身体が硬直する。
なんだ今の音は。音? 今僕は音を聞いたのか?
部屋を見回すが、変わった様子はない。
しかし、ずうんと重いものが腹の下にやって来たような感覚。
部屋の中の光量は全く変わらないままで、すべてが暗くなっていく感じ。
ビリビリと僕の中の古い、人体に今はもうないはずの感覚器がその気配をとらえていく。
うぶ毛が逆立つ。
死者の霊魂が。凍てつくような悪意が。
今、僕らの周りに湧き出てこようとしていた。
「動くな」
師匠が短く言った。
やばい。
これはやばい。近すぎる。
まったく心構えができていなかった僕はパニック状態に陥りかけた。
知らぬ間に広い畳のそこかしこから、人の頭のような形をした真っ黒いなにかがいくつもいくつも生えてきている。
前を向いたまま動けない僕の首の後ろにも、なにかがいた。無数の気配。吐き気のするような。
外よりいくぶんかましだった蒸し暑さも、そのまま変質したようにどろりとした濃密な冷たさとなって、部屋の中に充満している。
僕は自分の霊感が異常に高ぶっているのがどうしようもなく恐ろしかった。相手の正体も分からない。
倉持氏もその気配に気付いているのか、顔を硬直させたままぶるぶると頬の肉を小刻みに震わせていた。

361 :刀  ◆oJUBn2VTGE:2009/10/02(金) 23:34:41 ID:o7OYvvFV0
さっきまで。
さっきまでなにも感じなかったのに。どうして?
畳からずるりと出てきた黒い影たちが、浮遊を始める。
人の形をしている。
視界の端をかすめたそれは首のあたりが千切れかけ、皮一枚で繋がっているようにぶらぶらと揺れているように見えた。
黒く塗りつぶされているようで顔かたちなどはまったく分からない。
ただ、その黒いものが笑っているような気がするのだった。
いくつもの影が部屋の中を浮遊し、そのどれもが身体の一部が欠けていた。
心臓が早く脈打ちすぎて止まりそうだ。
確かに家の中で、変な気配や音、心霊現象のようなことが起こっていると聞いていたのに。
それを、コレクションの中に人を殺した曰くつきの刀があって欲しいと願う心理が生み出した過剰な錯覚だろうと高をくくってしまっていた。
どうしたらいい。どうしたらいい。
視界が暗くなっていく。どろどろと部屋ごと溶けて行くようだ。
師匠が、動いた。
それに反応して倉持氏がそばにあった掛台から脇差の一振りを掴み、中腰のまま胸元に引き寄せる。
怯えた表情だ。周囲を包む異様な空気を察知しているらしい。
師匠は構わず一歩前に踏み出す。そして倉持氏の目を見据える。
「戦争に、行きましたね」
その言葉に老人は目を剥く。
「北じゃない。……南方ですね」
師匠はちらりと横目で影を追うような仕草を見せた。
見えているのか、あの黒い影をもっと詳細に。
「あなたはそこで、人を斬り殺しましたね。軍刀で」
口をへの字にして泣きそうな顔をする依頼人に、容赦なく言葉が浴びせられる。
「斬り口が深すぎる。戦場じゃない。無抵抗の相手に対して振り下ろされた刃ですね」
師匠の瞳が大きくなり、左目の下に指が這う。

371 :刀  ◆oJUBn2VTGE:2009/10/02(金) 23:52:54 ID:o7OYvvFV0
「戦時中のことです。今それを非難するつもりはありません。しかし戦争が終わって新しい生活を送り始めても、あなたにはその凄惨な記憶ががずっと圧し掛かっていた。夜、うなされただろうと思います。死者の恨み、怨念を恐れたはずです。日々得体の知れない物音に、気配に、怯えていたでしょう。だから……」
師匠は立ち並ぶ刀剣に目をやった。
「勉強会で人を斬ったという刀を見てから、あなたは『上書き』を考えたのです。あるいは無意識に。人を斬り殺した刀が家にあれば、そんな気配や物音も、すべてその刀に憑いているものと思い込めるからです」
そうか。
分かった。
そのために霊能力を雇って来て、そのお墨付きを貰いたかったのか。
倉持氏はなにも言えずにだだ呼吸だけが荒い。鞘の中で刀がカタカタと鳴っている。
「今日私はこの家にお邪魔して以来、なんの霊的な気配も感じませんでした。それは刀を見ても同じでした。しかしそんな霊は刀に憑いてはいないという先ほどの返答とともに、どこにもなかったはずのこの霊気が吹き出してきました。今まで自分を苦しめた悪霊が、自分ではなく刀に憑いていたものなのかも知れないという期待感によってさっきまでその存在を保留されていたからです。斬った軍刀はここになくとも、死者の一部はあなたの心の中に残っていた。それが私の言葉で存在を肯定され、湧き出して来たのです」
こうなってはもう。
と師匠は言った。
「死者の念なのか、あなたの心が生み出したものなのか、区別がつけられない」
嘲笑が周囲から流れてくるような錯覚があった。気持ちの悪い気配が、薄くなったり濃くなったりしながら周りを漂っている。
気がつくと鞘の音が止まっていた。
「なにをいう。なにを……なにを……わかったような……」
ぼそぼそと口の中で繰り返す倉持氏の目に暗い色が灯っている。その目は師匠を睨み付けていた。正常と異常の境でわだかまるような目の色だった。


372 :刀  ◆oJUBn2VTGE:2009/10/02(金) 23:57:00 ID:o7OYvvFV0
空気が張り詰める。座ったまま、重心が少しずつ動いていく。そろそろと鞘を腰に押し付けていく。
居合いをやっている! この老人は。
無数の針で刺されるような殺気を感じながら、自分の汗が引いていくのが分かる。
師匠との距離は、間合いだ。
息が短く、荒くなる。
左手の親指が鯉口にかかる。
右手の指が柄の下に隠れる。
すべての動きが止まる。
抜く。
そう思った瞬間、僕は機先を制して手元にあったガラス製の灰皿を指に引っ掛けるようにして、投げつけていた。
「あっ」という声がして、同時に柄の先に硬いものが当たる衝撃音がした。
老人は左手を押さえ、脇差は鞘に収まったまま畳の上に落ちる。周囲のざわざわした影たちが一瞬で引いていく気配があった。
「貴様ッ」
物凄い形相で唸る老人を尻目に、僕は目の前の師匠の肩を抱いた。
「逃げますよ」
有無を言わせず抱きかかえるように走り出そうとする。
師匠はそれに抵抗しようとはしなかったが、ただ一言、老人に向かって短く言い放った。
「業だ。付き合え。一生」
そして畳を蹴って部屋を出た。
出るとき、ぬるん、という嫌な感触があった。自分を包む空気が正常に戻る。
背後からわめき声が追いかけて来る。正気が疑われる。危険だった。
廊下を走り抜け、玄関の靴を持ち、履く余裕もなく太陽の下に飛び出てから石畳の道を一目散に駆けた。
自転車に飛び乗り、師匠の重さが加わるのを確認してからペダルを思い切り踏んだ。
「あ」と背中から師匠の声。
ギクリとして、それでも自転車をこぎ出しながら「なんです」と訊いた。

373 :刀 ラスト  ◆oJUBn2VTGE:2009/10/03(土) 00:00:05 ID:o7OYvvFV0
「金、もらうの忘れた」
それどころじゃないでしょう。
そう言い返して、僕は全速力でその立派な家の門から離れ始めたのだった。
後日。
小川調査事務所のフロアで僕と師匠は上機嫌の所長と向かい合ってた。
「倉持さんからお金が入ったよ」
報告を聞いて諦めていたそうだが、昨日本人がやって来て規定の料金の十倍を超えるお金を置いていったのだという。
僕と師匠は顔を見合わせた。
「取り乱して悪かったって。あの時のことは他言無用に願うってさ。そりゃまあこちらには守秘義務ってものがあるからね。もちろん、と答えといたよ」
口止め料も含まれているわけか。確かにへたをすると殺人未遂だからな。
思い出していまさらゾッとする。
「ああ、それからこれ。きみたちにと」
デスクの下から大きな箱を取り出して来る。桐製の立派な刀箱だった。
開けると中には目算六十センチ弱の刀剣が一振り入っている。脇差だ。
「え? これをどうするんですって?」
動悸が早くなってきた。
「だから、くれるって」
凄い。こんな高価なものを。
ついていた登録証と保存鑑定書を読みながら興奮を抑えられなかった。
師匠は笑って「もらっとけ」と言った。僕に譲ってくれるらしい。価値が分かっているのだろうか。
「あと最後に伝えてくれって。……『わかりました』ってさ。なんのことだ」
師匠はそれを聞いて、嬉しそうな顔をした。ひょっとして脇差を抱える僕よりも。
その僕は脇差の柄のところに目立つ傷があるのに気が付いた。
あの時の灰皿か。
しっかりしてるな。
倉持氏のいかめしい顔を思い出して、なんだかおかしくなった。

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