【師匠シリーズ】賭け

330 :賭け ◆oJUBn2VTGE:2009/03/15(日) 21:59:55 ID:kR+moc+u0
神の存在に賭け、その意に適うような生き方をすることは苦痛であるかも知れないが、勝てばそれを補って余りある幸福を得られ、例え負けてもその苦痛は消滅する。
非存在に賭け、現世の利益だけを追求したとするなら、勝ってもその利益は虚無の中へ消え、負ければ祝福という永遠の幸福を失う。
だから、神の存在に賭けるべきだと。
これを聞いて、科学者らしい合理性だな、と俺は感じた。
「『生き方』としてはその賭け方が正しいかも知れない。でも『死に方』としては、どうだろうか」
パスカルの言う神とは、もちろんキリスト教のそれだろう。自殺を認めていない宗教なのだから、本来その問い自体がナンセンスのような気がする。
「『神』は『死後の世界』と置き換えてもいいだろう。苦しみからの開放という目的のための自殺は、賭けとして合理的か否か」
その問いかけに、さっき師匠自身が言いかけた「そんな人間は、天国やあの世と呼ばれるようなところに行きたいと思って死ぬのだろうか」という言葉が頭にリフレインされる。
すると師匠もまさにその言葉を繰り返した。そして少し間をあけてから続ける。
「死への欲動は、もっと奥深いところからやって来ていると思う。それはあの世に対するイメージが植えつけられる宗教観や固有文化という背景よりも、もっとずっと深い場所だ」
それはどこですか。
思わず問いかける。
師匠は口を開く。
僕らの記憶が始まる前の、真っ暗闇の中からさ。
……
その言葉を聞いてなぜか三半規管が一瞬機能を失ったような感覚があった。
「つまり、自殺するってことは、死後の世界を求めているんじゃなく、消滅を求めているってことですか」

331 :賭け ◆oJUBn2VTGE:2009/03/15(日) 22:02:45 ID:kR+moc+u0
極論だと、その時は感じなかった。毎度毎度、よく師匠の術中に陥るものだと、後にして思う。
「そうだ。だからさっきの問いは、『消滅を求めての自殺は、賭けとして合理的か否か』に置き換えられる」
その時、俺の目は、師匠の背後にいつの間にか現れた青白いものをとらえていた。
俺と向き合っている師匠の後ろには、薄暗い夜の道が延びている以外なにもないはずだったのに、明らかになにかゆらゆらと揺らめくものが存在している。
それが背中越しに見え隠れする。
心臓が冷たくなる。
心を不安にさせる気味の悪い耳鳴りが、頭の内側に響き始める。
師匠の後ろには、アスファルトの染みがあったはず。かすかに人型をしていたような、染みが。こちらを見ている師匠の耳の後ろに、うっすらとした男の顔が奇妙に歪んだままで揺れながら、ちらりと覗いた。
消滅を求めての自殺は、賭けとして合理的か否かなんて、理屈を捏ね回して考える必要なんてなかった。
俺が見ているものが賭けの結果そのものだからだ。
その中年男性に見える青白い顔は、しかし子どもが泣いているような表情を浮かべている。まるで凍りついたように。
そのアンバランスさがどうしようもなく冒涜的なものに思えて、恐怖心とともに生理的嫌悪感に襲われる。
師匠は後ろを振り返らない。
気づいていないはずはないのに。
また、口を開く。
「僕たちは、その問いの答えを、損得の理論によって導き出そうとはしない。何故なら、観察の結果がそれに代替するからだ」
師匠の顔の後ろに、泣き顔の男の顔が、凍りついたままで頼りなく揺れている。

332 :賭け ラスト ◆oJUBn2VTGE:2009/03/15(日) 22:04:41 ID:kR+moc+u0
「でも、僕たちはその観察の結果を正しく理解しているのだろうか」
気づいていないはずはないのに。
師匠は静かに言葉を紡ぐ。
俺はその声を、息をひそめて聴いている。
「最近、僕は疑うようになっている。『あれ』らは、僕たちが思うような、『僕らが死んだあとの続き』なんかではなく、僕らの想像の及ばない場所から、僕らのような姿形をしてやってくる、まったく別のなにかなのではないかと」
淡々とした声が風のない夜の空気に溶けていく。
その言葉は、いま目に映っている青白く虚ろなものに感じるよりも遥かに深い、原初的な恐怖心の眠る場所を撫でていった。

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