タカオは、この時初めて悟った。
音は、屋根沿いではなく、今の自分の真上からする。
これは雨音ではない。
反射的にヨウスケを探した。
ヨウスケはタカオから見える居間で、壊れた水屋を懸命にあさっている。
当然、一階で。
ということは。
トッ…………トッ…………
これが自然音でないとしたら、もしかしたら今、上に誰かがいる。
タカオはイヤフォンをつけたまま、居間へ寄った。
「ねえヨウスケ、上に誰かいるよ」
「ええ?……本当かよ?」
調子付いていたヨウスケはハシゴと天井の穴を見て、面白いおもちゃを見つけたような顔になって、
「俺、上るよ、ここ」
と言うや否や、ハシゴを持って天井の穴へ引っ掛けた。
「やめときなよ。泥棒だったら危ないじゃんか」
「こんなとこにどんな泥棒が来るんだよ。タカオも来いよ」
そう言い残してスルスルとヨウスケは二階へ上がる。
「俺、行かないよ」
タカオのほうは、好奇心よりも気味悪さが勝っていた。
やることがなくなったので、再びテープに耳をすます。
「……どうしよオ……」
「……」
母子がやり取りになっていないので、相変わらず内容はさっぱり分からない。
「……この人は、いかな……の……なア……」
「……」
「……そりゃア、そのほうがい……けどオ……」
「……」
……?
なんとなく母子の会話に違和感を感じた。
しかしその正体を見つける前に、窓の外で稲光が走った。
少しだけ遅れて、
ゴロッ、ゴロ……
と重い音が古い家を震わせる。
黒ずんだ材木のヒビの一つ一つにまで空気の振動が伝わり、そしてすぐに通り過ぎた。
しかし雷が去っても、タカオの体は震えていた。
今のはなんだ。
雷が鳴った時……。
同じように雷音が聞こえた。
イヤフォンの中から。
そして違和感の正体にも思いが至る。
『この人』って、誰だ。
目の前の人間を指差して言うような声音だった。
誰のことを言ってる?
『この人はいかない』?
どこへ?二階へ?
まさか……『この人』って……
気味の悪さは恐怖に変わった。
イヤフォンを耳からはずし、
「ヨウスケ」
二階へ呼びかける。
「ヨウスケ、出ようよ。俺、ここの家嫌だよ」
しかし返事は返ってこない。
二回の奥まで入り込んでしまっているのだろう。
止むを得ずタカオはハシゴを上り、二階へ着いた。
その時に気付いたのだが、このハシゴは二階へは収納できない造りのようだ。
ハシゴを上へ引き上げようとすると穴の口の所で引っかかり、二階へ持ち込めないようになっている。
タカオは意外に広い二階を、ヨウスケの名前を呼びながら見て回った。
入り口の狭さと不便さから、物置のような場所を想像していたのだが、まるで違う。
なんとなく、一階よりも建材が新しい。建て増ししたのかもしれない。
古い家にしては珍しく、簡素な風呂や、申し訳程度ながら炊事場、手洗い(便は外の便壷へ落ちる仕組みと見られた)まであり、二階だけでもある程度生活が出来る造りだ。
居室は三部屋ほどあるようだった。
そのうちの一つはただの狭い和室で、襖も外されていたから、ペンライトで照らせばヨウスケが居ないのはすぐに分かった。
もう一つの部屋の戸を開けて照らすと、そこは異質な空間だった。
六畳ほどだろうか、板の間の中央にこの家には不釣合いなパイプ・ベッドが置いてある。
床にはそこかしこに黒っぽい染みがあり、ベッドの布団も薄暗い様々な色の染みがついていた。
カビだろうか。
しかし、近づいて確かめる気にはなれない。ただでさえこの部屋は、他よりもひときわ空気が重い気がする……。
この部屋には収納も無く、ヨウスケはやはり見当たらない。
最後の部屋は外に向かって大きく枠を取られた窓……というよりガラス戸があった。
その向こうで時折、垂れ込めた雲に稲光が見える。
ここはどうやら子供の居室だったらしく、おもちゃや古いマンガ本、勉強机に教材が少し残っていた。
それらから見ると、赤いランドセルこそ見当たらなかったものの、住んでいたのはどうも女の子らしい。
さっきのテープに声を吹き込んだ子だろうか。
思い出して、少し身震いした。
視界は相変わらず悪く、物の多いこの部屋では隅々まで様子を把握できない。
「ヨウスケ、どこに居るんだよ。隠れてんのか?」
返事は無い。
代わりにカサカサと、ネズミとも家鳴りとも木揺れともつかない音が小さく返ってきて、家の中の静寂がより強調された。
一階からは、使い物になりそうな家財道具の殆どが持ち去られていたというのに、二階には生活用品が残されている。
壁には部屋の住人だったらしい女の子が描いたと思しき絵も飾られていた。
画用紙に、友人らしい少女と手をつないで遊ぶ姿が描かれている。
なぜか二人とも同じ服を着ていたが、子供の描く絵などそんなものだろう。
そういえば、先程の炊事場(台所と呼ぶには粗末過ぎた)にはいくらかの食器もあったな、上下でまるで別の家だな……と思いながら、ガラス戸へ近づく。
確か方角的に考えると、最初に見た外付けのハシゴは、このガラス戸の下に付けられているはずだ。
少々広いからと言って、これだけ呼んで出て来ないということは、もうヨウスケはここにはいないのではないか。
この部屋に取り付けられたハシゴを伝って、二階から外に出たんだろう。
タカオはそう決め付けつつあった。
ガラス戸を開けると、ベランダ状の小さな張り出しがある。
やはりここが、第二の玄関なのだ。
「おいヨウスケ、降りてんのかア?」
しかし、
「なんで……?」
思わす声がでた。
張り出しの下で、朽ちたハシゴが中程から折れ曲がって古屋の壁に寄りかかっていた。
先程下で見たときには分からなかった。
これでは使い物にならない。
確信していたことをあまりにも直接的に裏切られて、タカオは思い切り動揺した。
じゃあヨウスケはどこだ。
心細さが倍増し、孤島にただ一人残されたような気持ちになる。
「なんなんだよゥ……」
足がすくみ、冷や汗が吹き出た。
雷の合間の静けさの中で、外したイヤフォンから音が漏れていた。
もう聞く気になどならない。止めよう。
リュックに収めてあるステレオの本体を取り出し、カセットを抜こうとした。
取り出しボタンを押す間際に気付く。
まだ停止していないはずなのにテープが回っていない。
電源ランプも消えている。
電池は充分なはずだ。
見ると、ステレオのプラスチックの合わせ目から水が染み出している。
リュックから染みた水で壊れたらしい。
…………。
いつから壊れていた?
震える手でコードをつまみ、
イヤフォンをそっと耳に当てた。
「……ママァ、トモエちゃ……から、おこってるよオ……」
テープは止まっている。
タカオは、そうと覚えてはいないが、恐らく悲鳴を上げたという。
逃げる。
ここはだめだ。
振り返ると、子供部屋の隅の本棚の陰に人がいた。
背中を向けてうずくまっているが、ヨウスケだ。
物陰になっていて気付かなかった。どうやらペンライトも持っていない。
「ヨウスケ、何で返事しなかったんだよ。ここ出よう!」
「痒い……痒い……」
そういってヨウスケはモゾモゾと動いている。
タカオはいらだち、
「早く立てよ」
そういってヨウスケの肩をつかみ、自分のほうへ向かせた。
ヨウスケは自分の顔をかきむしっていた。
顔面の皮膚が破れ、そこらじゅうに血が滲んでいる。
それでもヨウスケはカサカサと顔をかき続ける。
「何やってんだ、やめろよ!」
「痒いんだよ……痒いから……」
トッ……トッ……
その時後ろに気配を感じた。
タカオが振り向くと、質素というよりは粗末なぼろけた服を着た、自分たちと同じ年頃の少女が部屋の中央に立っていた。
「わアアアアア!」
今度ははっきりと、タカオは悲鳴を上げた。
少女は顔を伏せており、表情は見えない。しかし、あまりにも異質すぎる。
イヤフォンから、また音が漏れていた。
誰かが何かを喋っている。
タカオは震える声で、
「お前か……?これしゃべってんの、お前か」
少女は応えない。
タカオはイヤフォンを耳に当てた。
「……あた……じゃないよ、そ……子は……トモエ……」
声が今までよりも遠い。
「……お……ってる……らア……二階は、駄……だよオ……」
『アアア』
いきなり別の声が割り込んできた。
同じタイミングで、目の前の少女が顔を上げる。
その顔は、真っ赤な掻き傷でズタズタだった。
かさぶたを更にかきむしったようにえぐれと盛り上がりが重なり合い、傷という傷が血にまみれている。
それでも明確に顔面に浮かんでいる怒りの表情に、目が合ったタカオは我を失った。
「うわっ、うわあっ!」
悲鳴を上げながらタカオは、ヨウスケを引きずるようにして逃げ出した。
つい駆け込んだ先は、パイプ・ベッドの部屋だった。
いけない、と引き返そうとして、足がすくんで止まった。