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【洒落怖】逆さの樵面

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844 9/13 sage 2005/12/11(日) 20:25:21 ID:CUnu3Rn40
かつて日野草四郎篤矩によって神楽を伝承された4家は、その後も大いに栄えたと伝えられている。
ところが、姑曰く土谷家はその4家よりも古い神楽を伝えられているという。
日野家と同じ客人(まろうど)であった土谷家こそが、日野家以前に
この千羽に神楽を伝え、千羽神楽の宗家であったのだと。
ところがあらたに入ってきた遠来の神楽にその立場を追われ、山姫
などいくつかの演目と面、そして縁起まで奪われてしまったのだと。
そしてこの樵面こそ、土谷家が今はいずことも知れない異郷より携えて来た、祖先伝来の面なのだと。
それを日野家由来とする資料は、ことごとく糊塗されたものだと。
そうした経緯があるためか、4家のみによる神楽舞の伝承が壊れた
のちも、土谷家からは舞太夫を出さないという仕来りがあった。
しかし江戸時代の末期に、とうとう土谷家の人間が舞太夫に選ばれることとなった。
土谷甚平は迷わず樵面を所望したという。
ところが樵面を着けた夜、甚平は葉桜の下に狂い、村中を走った。
そしてこの世のものとは思えない声でこう叫んだ。
「土モ稲モ枯レ果テヨ。沢モ井戸モ枯レ果テヨ」
そして面の上から自らの両目を釘で打ち、村境の崖から躍り出て死んだという。
死骸から面を外した甚平の姉は、密かに面を持ち去り、土谷家の
奥座敷の柱に逆さまにして打ちつけた。
その年より村は未曾有の飢饉に見舞われ、また「戸口に影が立った家」にはいわれ無き死人が出たという。

846 10/13sage 2005/12/11(日) 20:27:06 ID:CUnu3Rn40
樵面は樵でありながら神そのものであり、その神に別の神の言葉を
喋らせ、別の神の舞を踏ませたことが、面の怒りをぐつぐつと長い年月に亘って煮立たせていたのだという。
そして甚平の体を借りて呪詛を村中に撒き散らせたのだ。
いわば日野流神楽への土谷流神楽からの復讐だった。
その樵面は未だに土谷家の奥座敷にて、この村を呪い続けている・・・
姑の口から忌まわしい恩讐の話を聞かされた父たちは、その場に凍りついたままだったといいます。
憑き物がわずかに取れた顔で、姑は肩の力を抜きました。
「太郎さんはいけんよ。次は命がないけんね」
その言葉を聞いて、太夫や職員は色めきました。
姑はつまりこう言っているのです。
「太郎さんの目が見えないのは、むかし樵面を取りに座敷に入ったからだ」と。
結局一堂は土谷の屋敷から離れました。
そして近くの神社に寄りあって、どうしたらいいのか協議をしました。
壁を壊して座敷の裏側から面を外してはどうかという意見が出ました
が、土谷家の人間を説得できない限りそんな無法はできないという結論に至るばかりです。
さりとてこのままにはしておけない、と頭を抱えていたとき、一人の老人が寄り合い所を訪れました。

847 11/13 sage 2005/12/11(日) 20:27:47 ID:CUnu3Rn40
90年配の高齢と思しき老人は、自分が樵面を外すと言いました。
人に外せないなら、人ならぬものが外せばいいと。
再び土谷家へ出向いた一堂は、ことの次第を姑に話しました。
老人の手を握り、承知した姑は奥座敷に案内しました。
襖を開け、再び樵面にまみえた父たちは怖気づきましたが、控えの
間から白い人影が現われたとき、えもいわれぬ安堵感に包まれたと言います。
山姫の面に格衣、そして白い布を羽織った老人が静々と歩みよって来たのです。
そして神歌とともに舞いながら、ゆっくりと座敷の内側に入り込んで行きました。
息を呑む父たちの前で、不思議な光景が繰り広げられていました。
暗い座敷の中で白い人ならぬものが舞っているのです。
太夫の一人が叩く神楽太鼓の響きの中、山姫はひと時も止まること
なく足を運び、円を描きながらも奥の柱の樵面へ近づいていきました。
山姫の手が樵面へ触れるや否や、面の両目を打っていた釘がぼろぼろと崩れ落ちました。
100年以上も経っているため、腐っていたからでしょうが、父にはそう思えませんでした。
この襖の向こう側は人の領域ではないのだから、何が起こっても不思議ではないと、素直にそう思えたのです。


848 12/13 sage 2005/12/11(日) 20:29:52 ID:CUnu3Rn40
ちょうど舞が終わるころ、黒い樵面を携えて山姫が座敷から出てきました。
「もう舞うことはないと思っていた」
森本弘明老人はそう言って山姫の面を外しました。
『山姫の舞』『火荒神の舞』『萩の舞』
三舞復活縁起のまさにその人が、最後の『樵の舞』の面を取り戻したのです。
父は得体の知れない感情に胸を打たれて、むせび泣いたそうです。
その後、樵面は土谷家ゆかりの神社に祭られることになりました。
演目としては催されることはありませんが、『樵の舞』は土谷家に
密かに伝わっていたため、これで失われていた4つの舞が蘇ったわけです。
のちに父は機会があり、森本老人に舞太夫としての心得を聞きました。
森本老人は「素面にあっては人として神に向かい、面を着けては神として人に向かうこと」とだけ教えました。
神そのものに心身が合一すると、はじめて見えてくるものがある。そう言って笑うのです。
千羽神楽の中で樵は山姫と恋仲にあることが、演目のなかに見えてきます。
しかし山姫などのいくつかの演目は、いにしえの土谷流と日野流ではまったく違うものであったといいます。
現在の土谷家に伝わっていたのは『樵の舞』だけであったため、
『山姫の舞』などは日野流と面を同じくこそすれ、一体どんな演目であったのか皆目わからないのです。

850 13/13 sage 2005/12/11(日) 20:31:17 ID:CUnu3Rn40
しかし、森本老人はあの樵面を取り戻した舞の中で、山姫は樵を愛していることが分かったと言います。
「きっと、いにしえの舞でも、山姫と樵は恋仲にあったのだろう」
だからこそ、樵面をあの座敷から出すことができたのではないか、と。その言葉に父は頷きました。
神楽とは、一方的に与え、一方的に奪う、荒ぶる神との交信の手段なのだと私は思います。
神を饗待し、褒め、時には貶し、集落で生きる弱き者の思いを伝え、
またその神の意思を知るために神楽が舞われるのだと思います。
「神」を「自然」と置き換えてもかまいません。
日本の神様は怒りっぽいということを聞いたことがあります。
しかし荒々しい怒りとともに、たいていその怒りを鎮める方法も同時に存在するものです。
たぶん、陰々と千羽を呪い続けた樵面にとって、あの森本老人の山姫の舞がそうであったように。
その出来事のあと、私が生まれる数年前に森本老人の家の戸口に影が立っているのを多くの人が見たそうです。
あの樵面の呪いにより、いわれ無き死人が出るという影です。
しかしその日は、1世紀にわたって生きた舞太夫の、大往生の日だったということです。
(終わり)

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