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【師匠シリーズ】風の行方 後編

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232 :風の行方 後編  ◆oJUBn2VTGE:2012/05/19(土) 23:34:55.04 ID:13YZ4scB0
また、「能に掛け申す面にては御座(イ)無く候」とも記されているとおり、能の大家の守護神たる面にもかかわらず、能を演じるときに被られることはなく、ただ秘伝である『翁』の技を伝授された太夫のみが一代に一度のみ見ることを許されたという。
それは「鬼神」の面とも、「翁」の面とも言われているが、正体は謎のままである。時代の下った現代では大和竹田の面塚に納められているとも言われるが、その所在は判然としていない。
その「おそろし殿」と呼び畏れられた面が。「太夫といえども見てはならぬ」と称された面が……
「ちょっと、まってください」
ようやく口を差し挟んだ。
師匠は僕の目を見つめ返す。
「あの面には、その、肉が。ついていました」
能を演じる際に掛ける面ではない、と言われているのに、あきらかに誰かが被った痕跡があった。いや、それ以前に、それほど古い面ならば、人間の肉など風化して崩れ落ちていてしかるべきではないか。
「ニンゲンの肉ならな」
師匠は口元に小さく笑みを浮かべる。
いや、そもそも、どうしてそんな面を師匠が持っているのだ。
「話せば長くなるんだが。まあ簡単に言うと、ある人からもらったんだ」
「誰です」
「知らないほうがいいな」
そっけない口調で、つい、と視線を逸らされた。
なんだか恐ろしい。
恐ろしかった。
その面はただごとではない。自分自身がそれを見た瞬間に「災害のようなもの」と直感したことを思い出した。
そして次に、師匠がその面の裏に張り付いた肉から抜き取った髪の毛を、風の中に解き放ったときの光景が脳裏に蘇る。そのときの、風の唸り声も。
ゾクゾクと寒気のする想像が頭の中を駆け巡る。
髪の毛は風に乗って宙を舞い、街中を飛び続ける。まるで巨大ななにかが深く吸う息に、手繰り寄せられるように。
やがて髪の毛は誰かの手元にたどり着く。そして人間を模したヒトガタの奥深くに埋められる。それを害することで、その髪の持ち主を害しようとする、昏い意思が漏れ出す。
そして……
二十分か、三十分か。沈黙のうちに時間が経った。

233 :風の行方 後編 ラスト  ◆oJUBn2VTGE:2012/05/19(土) 23:37:16.82 ID:13YZ4scB0
深夜ラジオの音と、轟々という風の音だけが響く高層ビルの屋上で、僕はふいにその叫びを聞いた。
h ―――――――――………………
声にならない声が、夜景の中に充満して、そして弾けた。断末魔の叫びのようだった。
その余韻が消え去ったころ、恐る恐る街を見下ろすと、遥か地上ではなにごともなかったかのように車のヘッドライトが、連なる糸となって流れていた。
きっとあの叫び声が、悲鳴が、聞こえたのはこの街でもごくひと握りの人間たちだろう。その人間たちは昼間の太陽の下よりも、暗い夜の中にこそ棲む生き物なのだ。
自分と、師匠のように。
「結局、曽我ナントカだったのか、別の誰かだったのか分からなかったな。黒魔術だか、陰陽道だか、呪禁道だか知らないが、たいしたやつだよ」
その夜の側から、師匠が言葉を紡ぐ。
「だけど」
相手が悪かったな。なにしろ国宝級に祟り神すぎるやつだ。
ひそひそと、誰に聞かせるでもなく囁く。
僕はその横顔を金網越しに見つめていた。落ちたら助からない高さに腰をかけ、足をぶら下げているその人を。
その左目の下あたりからは、いつの間にかぽろぽろと光の雫がこぼれている。そしてその雫は高いビルの屋上から、海のような暗い夜の底へと音もなくゆっくりと沈んでいく。
この世のものとは思えない幻想的な美しさだった。
われ知らず、僕はその光景に重ね合わせていた。見たこともないはずの、鷹の涙を。あるいは、夜行性の鳥類の涙…… 例えば、フクロウの流すそれを。
気がつくと、風はもう止んでいた。
(完)

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