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【師匠シリーズ】先生 前編

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534 :先生 前編  ◆oJUBn2VTGE:2009/08/22(土) 00:11:51 ID:ZFtl5JP90
その盟主アテネと、別の同盟を作ったスパルタが戦ったのがペロポネソス戦争。衆愚政治に陥って弱体化したアテネやスパルタに代わって台頭してきたテーベ……
「テーベ」
先生のチョークがそこで止まる。教壇に立つ背中が硬くなったのが分かった。どうしたんだろうと思う僕の前で先生はハッと我に返るとすぐに黒板消しを手にとって、「テーベ」を「テーバイ」に書き直した。
何ごともなかったかのように先生は、その後テーバイはアテネと連合して北方からの侵略者マケドニアと戦ったけれど破れてしまい、時代はポリスを中心とした都市国家社会からマケドニアのアレクサンドロス大王による巨大な専制国家社会へと移って行った、と続けた。
その書き直しの意味はその時には分からなかった。ただ先生の背中がその一瞬、重く沈んだような気がしたのは確かだった。
ヘレニズム文化の説明まで終わって、ようやく先生は手を止めた。
「疲れたね。ずっと同じ科目ばかりっていうのも飽きちゃうから、今度はこんなのをやってみない?」
そう言って渡されたのが算数の問題が書かれた紙。ゲッと思ったが、よく見ると案外簡単そう。
「どこまで進んでるのか分からないから。少し難しいかも」
そんなことはないですぜ。とばかりにスパッと解いてやると先生は「凄い凄い」と手を叩いて、「じゃあ、これは」と次の紙を出してきた。
余裕余裕。え? さらに次もあるの? 今度は正直ちょっと難しいけど、なんとか分かる気がする。僕は鉛筆を握り締めた。
そうしていつのまにか世界史の授業は算数の授業に変わり、たっぷりと問題を解かされたところでお昼になった。
「また明日ね」
帰り道、結局「嫌い」だと明言したはずの算数をいつのまにかやらされていたことに首を捻りながら歩いた。算数の問題はプリントじゃなく手書きで、それを解いているとなんだか先生と会話しているような変な気になる。
それほど嫌じゃなかった。また明日行こうと思った。

536 :先生 前編  ◆oJUBn2VTGE:2009/08/22(土) 00:14:38 ID:ZFtl5JP90
そうして、僕と先生の夏休み学校が続いた。朝は世界史の講義。次に算数。それからいつのまにやら漢字の書き取りが加わっていた。
ほかの子は誰も夏休み学校にこなかった。
「悪い風邪が流行ってるから、あなたも気をつけてね」と言われ、僕は力強く頷く。
世界史の勉強は面白く、走りばしりではあったけれど歴史の魅力を十分僕に伝えてくれた。算数や漢字の書き取りの時間はあんまり楽しくはなかったけれど、出来てその紙を先生に見せる時のあの誇らしいような照れくさいような感じはキライじゃなかった。
僕が問題を解いているあいだ、先生は窓辺の席に腰掛けて折り紙を作っていた。それは小さい折鶴で、ある程度数がまとまってから先生は糸を通した鶴たちを窓にかけた。
「みんな早く風邪が直ればいいのにね」
そしてまた次の鶴を折るのだった。
僕は不謹慎にも、風邪なんか治らなくていいよと心の底では思っていた。
先生との二人だけの時間をもっと過ごしたかった。でも、僕が机の上の問題にかかりっきりになっているあいだ窓辺に座る先生の横顔は寂しそうで、その瞳が窓の外をぼうっと見るたびになんだか僕は切なくなるのだった。
「言葉が違うね」と僕に言った先生自身も、その言葉には訛りがほとんどなかった。高校に入る時東京に出て、大学も東京の大学に受かってずっと向こうで暮らしていたらしい。
それが東京で就職も決まっていたのに、実家のお母さんが倒れたというのですべてを投げ打って帰ってきたんだそうだ。その話をしてくれた時、先生の瞳の光は曇っていた。
「私の家は母子家庭でね、お母さん一人を残して出て行っちゃった時、やっとこんな田舎から離れられるって、それしか考えてなかった。なんにも言わずに仕送りをしてくれてたお母さんがどんな思いでこの田舎で働いていたか、全然考えてなかった」
だから今は臨時教員などをしながら、家で母親の看護をしているのだそうだ。


538 :先生 前編  ◆oJUBn2VTGE:2009/08/22(土) 00:17:11 ID:ZFtl5JP90
僕はお邪魔したことはないけれど、校舎の隣の小さな家に二人で暮らしているらしい。
先生にはなにかやりたいことがあったんだろうと思う。それを捨てて、今はこうして田舎で子どもたちを教えている。小さなオンボロの学校で。手作りの問題集で。
お昼になって、僕が帰る時先生はいつも二階の窓から身を乗り出して手を振った。「明日もきてね」と。
僕はいつか夏が終わるなんて考えていなかったのかも知れない。蝉の声が耳にいつまでも残っていて、晴天の下をポッコポッコと歩いて、通る人の影もない道を毎日毎日わくわくしながら通い続けた。
林間学校からシゲちゃんが帰ってきても、午前中だけは彼らの遊びの誘いに乗らなかった。
「そろそろ宿題やんないとヤバイ。うちの学校ごっそり出るんだ」と言うと、「大変だな」と頷いてシゲちゃんはそれ以上無理に誘ってこなかった。このあたりにも親分としての器量が伺える。
ただ、朝から外に飛び出して行くシゲちゃんがいきなり帰ってくることはまずなかったけど、念のために「あ、でも気分転換に散歩くらいするかも」と予防線を張っておくことも怠らなかった。
僕はなんとなく鎮守の森を越えて行く夏休み学校のことを、ほかの人に知られたくなかった。特にシゲちゃんに知られてしまうと、先生と二人だけの時間をぶち壊しにされてしまいそうで。
先生もシゲちゃんのことを知ってたし、シゲちゃんが鎮守の森の先を「なんにもないよ」と嘘をついたことがずっと気になっていたのだった。
朝から遊びに行くシゲちゃんを見送ってからこっそりと家を抜け出すのだけれど、午後からはきっちりシゲちゃんたちと遊びまわったし、特に怪しまれることはなかったと思う。
問題は妹のヨッちゃんだ。毎朝「どこ行くの」と聞いてくる。そのたびに「散歩」とか適当なことを言って追い払うのけれど、家から抜け出すたびに尾行されていないか途中で何度も振り返らなくてはならなかった。

539 :先生 前編 ラスト  ◆oJUBn2VTGE:2009/08/22(土) 00:19:50 ID:ZFtl5JP90
世界史の講義はローマ帝国の興亡からイスラム世界の発展へと移り、先生の作る折り鶴もだんだんと増えて教室の窓に鈴なりになっていった。
休憩の時間には僕も習いながら鶴を折った。僕はコツを教えてもらってもヘタクソで、変な鶴ができた。全体的に歪んでいて、あんまり不格好で悔しいので、せめてもの格好付けに羽の先をくいっと立てるように折った。戦闘機みたいに。
先生はにこにこと笑いながらその鶴も飾ってくれた。
朝から雨がぽつぽつと降り始めていたのに、鎮守の森を抜けるとカラッと晴れていたことがあって、先生は僕のその話を聞いたあと「山だからね」と頷いてから「でもあの森って不思議なことがよくあるのよ。私も子どものころに……」と怪談じみた話をしてくれたりした。
先生の白い服の短い袖から覗く腕は細くて頼りない。トカイもんの手だ。先生は僕の知っている先生と比べても若すぎて、まるで近所のお姉ちゃんみたいだった。
でもそんなお姉ちゃんの口からマルクス・アウレリウス・アントニヌスだとかハールーン・アッラシードなんて名前がパシパシと出てきて、それが変にカッコよかったのだった。
そして、その日がやってきた。

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