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【師匠シリーズ】先生 前編

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520 :先生 前編  ◆oJUBn2VTGE:2009/08/21(金) 23:22:50 ID:YUHlb2rI0
なんだか危険な感じ。慌てて前を向いて歩き出す。
途中、山に登る横道がいくつかあったけれどなんとか迷わずに鎮守の森の神社までたどり着けた。
一応お参りしておくことにする。木に囲まれた参道を進み、小さな鳥居をくぐる。古ぼけた建物がひっそりと佇んでいるその前に立ち、お賽銭箱にチリンと百円玉を投げ込む。やっぱり良い音だ。神社の中には人の気配はない。誰か通ってきて手入れをしたりしているのだろうか。
くるりと回れ右をして元きた参道をたどる。途中で小さな池があるのに気づいて横道に逸れた。鳥居の横あたりだ。水面ではアメンボがすいすいと泳いでいるけれど、水の中は濁っていてよく見えない。
雨が降らないあいだはきっと干上がるんだろうなと思いながら顔を上げ、参道に戻る。
サクサクという土の音を聞きながら歩いていると、なにか大事なものを忘れた気がして振り向いた。そこには鳥居があるだけだったけれど、そう言えば帰りに鳥居をくぐってないなと思い出す。
まあいいやと思って先へ行くと、だんだんと変な、ぐるぐるした感じが頭の隅にわいてきて、それがどんどん大きくなってきた。
なんだろう。気分が悪い。景色が妙に色あせて見える。
僕はキョロキョロとあたりを見回したい気持ちを抑えて光と影が交互にやってくる参道を早足で抜けた。
どうしよう。戻ろうか。
そう考えたけれど、また逃げ帰るのはシャクに触る。どっかから勇気がわいてこないかと待っていると、お賽銭箱に百円玉を入れたチリンという音が耳に蘇ってきた。
ようし、百円だからな。前は十円。今日は百円だ。
そんな感じで無理やり勇気を引っ張り出して、帰り道の反対方向へ足を向けた。ザンザンと土を踏んで歩く。

521 :先生 前編  ◆oJUBn2VTGE:2009/08/21(金) 23:25:12 ID:YUHlb2rI0
蝉の声は相変わらずやかましくて、あたりは薄暗くて、どこまでも同じように曲がりくねった道が続いている。道の先には誰の足跡もない。時どき振り返るけれど地面には僕の足跡がついているだけ。
カーブのたびに誰か僕じゃない人の姿が木の影に隠れたような気がするけれど、きっとサッカクなのだろう。だんだん道は狭くなり、倒れた木がそのまま放っておかれてキノコなんか生えちゃってるのを見るとやっぱりこの先はただの行き止まりじゃないかと考えてしまう。
リュックサックにつめた保存食料、まあそれはクッキーやリンゴだったのだけれど、そういうものが役に立つようなことがないように祈りながら、方位磁針を見たり、振り返ったり、チリンという音を思い出したりして僕は歩き続けた。
やがて一際暗い木のアーチがまるでトンネルの幽霊のように現れ、僕は少しだけ足踏みをしてからその奥に吸い込まれて行く。
なんという名前の木だろう。分厚い葉っぱが頭の上を覆い尽くして、光がほとんど漏れてこない。時どき暗がりから白い手がスイスイと揺れているのが見えた気がして身体が硬くなる。
足元を見ると僕の足は確かに今までと同じ土を踏んでいて、その上に立っている限りは大丈夫だと自分に言い聞かせながらほとんど走るようなスピードでそのトンネルを抜けた。
ぱあっ、と目の前が明るくなる。
白い雲がぽつんと空に浮かんでいる。その下には緑の眩しい畦道が伸びている。畑がある。山の上にはいくつか家が見える。ツバメが飛んでいる。蛙が鳴いている。
僕は、はぁっ、と息を吐き出して、それから吸い込む。
なんだ、別の集落に通じているじゃないか。シゲちゃんめ。嘘こきやがって。そう思って、自然に軽くなる足を振り上げ、畦を進む。でも良く考えると、途中の森の中になにもなかったのは確かだ。
ううむ。嘘つきだと言ってやっても、へこませられるか自信がないな。
ふと思いついて、振り返るとさっき抜けた森の入り口がぽっかりと暗い口を開けている。

522 :先生 前編  ◆oJUBn2VTGE:2009/08/21(金) 23:29:37 ID:YUHlb2rI0
帰る時にまたあそこを通るのかと思うと少し嫌な気分になったけれど、ひょっとするとほかに道があるかも知れないと考えて、とりあえず誰かこのあたりの人を探すことにした。
ひまわりが咲いている道をキョロキョロしながら歩いていると、そこは山に囲まれた案外小さな集落だと気づく。段々畑が山の斜面に並んでいて、埋もれるように家がぽつんぽつんとある。
道には太陽が降り注ぐばかりで、ほかに歩く人の影も見えない。僕は勾配のなだらかな坂道を登って大きな屋根が見えている場所へ向かった。汗を拭いながら登りきると、そこには広い庭と木造二階建ての古そうな家があった。
とても大きい。庭も、庭というより広場みたいな感じ。隅っこの方に鉄棒と砂場が見える。あれ? なんだか学校みたいだな、と思ったけれど学校にしては小さすぎる。少なくとも僕の知っているものよりは。
その時、二階の窓に誰かいるのに気がついた。
風が吹いて、僕の髪が揺れるのと同時にその人の髪も揺れた。黒くて長い髪。白い服。女の人だ。
窓際に頬杖をついて、ぼうっと広場の隅を見ている。
なんだか胸がドキドキした。僕は広場の真ん中にり突っ立ってその人を見上げていた。でもいつまで経ってもその人はこっちに気づく気配はなかった。僕は方位磁針をポケットに仕舞ってから、あのぅ、と言った。
あんまり声が小さかったので、すぐに「すみません」と言い直した。それでもその人は気づいてくれず、ぼうっとしたまま外を見ていた。なんだか恥ずかしくなってきて帰りたくなったけれど、もう一回声を張り上げた。
「すみませぇん」
次の瞬間なにかかが弾けたような感じがした。その人がこっちを見た。わ、どうしよう。確かに、ぱちんという感じに世界が弾けたのだ。
その人は最初驚いたような顔をして、次にぼうっとしていた時間が去ったのを惜しむような哀しい顔をして、それから最後ににっこりと笑うと「こんにちは」と言った。

526 :先生 前編  ◆oJUBn2VTGE:2009/08/22(土) 00:01:05 ID:ZFtl5JP90
僕にだ。僕に。
「どうしたの」
その人は窓から少し乗り出して右手を口元に添える。
「ここはどこですか」と僕はつまらないことを聞いてしまった。
なにかもっと気の利いたことが言えたら良かったのに。
「ここはね、学校なの」
「え?」
「がっ・こ・う。ね、上ってこない? すぐそこが玄関。下駄箱にスリッパがあるから履いてらっしゃい」
「は、はい」
と僕は慌ててその建物の玄関に向かった。開け放しの扉の向こうに、埃っぽい下駄箱と板敷きの廊下があった。
電気なんかついていなかったけれど、ガラス窓から明るい陽射しが差し込んできて中の様子がよく見えた。左右に伸びる廊下には「一、二年生」や「三、四年生」と書いてある白い板が壁から出っ張っていて、その向こうは小さな教室があるみたいだった。
玄関の向かいにはすぐに階段があって、僕は恐る恐る足を踏み出す。なにしろ片足を乗っけただけでギシギシいう古ぼけた木の階段なのだ。狭い踊り場の壁には画鋲の跡と、絵かなにかの切れ端がくっついていた。
二階に着くと一階と同じような板敷きの廊下が伸びていて、その左手側の教室からさっきの女の人が手を振っていた。
「いらっしゃい」
僕はなんて返事していいか困った挙句、「どうも」と言った。その人はくすりと笑うと、「ここはね、むかしは小学校だったの。今はもうやってないけど。子どもが減ったのね」と、僕を教室の中に誘った。白い板には「六年生」と書いてあった。
小さな教室には机が五つあった。それが最後の卒業生の数だったのかも知れない。僕はたくさんの机がぎゅうぎゅうに詰まっている自分の学校の教室を思い浮かべて、なんだか目の前のそれがおもちゃのように見えて仕方がなかった。


527 :先生 前編  ◆oJUBn2VTGE:2009/08/22(土) 00:03:15 ID:ZFtl5JP90
その人は机に手を触れながら、明るい表情で言う。
「もともとこの土地は私の家のものだったから、廃校になったあと返してもらったのよ。ボロの校舎付きでね。壊してもいいんだけど、今は家に私と母がいるだけだからおうちなんて小さくてもいいもの。ほら、校舎のすぐ横に平屋があったでしょ。あそこに住んでるのよ」
そう言われればあった気がする。
「今は夏休みでしょう。私、夏休みのあいだこのあたりの子どもたちにここで勉強を教えてあげてるの」
「勉強?」
「うん。私、隣の町で小学校の先生をしてるの。臨時雇いだけど。私も夏休みだから、することがなくって。暇つぶしもかねてね。だからこの夏休み学校ではお月謝はもらってないの。ただし午前中だけね。学校の宿題は教えてあげない。普段は決められた時間に決められた科目を勉強してる子たちを、夏のあいだだけでもその子の好きな科目、興味がある科目を少しでも伸ばしてあげられたらなぁって」
指が机の木目を撫でる。
「でもみんな今日はお休みなのよ」
そう言って顔が少し曇った。
「風邪が流行っているみたい」
そして窓の外に目を移す。僕も釣られてそちらを向く。
「あなた、何年生? どこの子? 言葉が違うね」
「え、あ」
僕はちょっとどもってから、自分が六年生であること、そして遠くからきて親戚の家に滞在していることを説明した。それから家の名前を言う。けれど、言ってからその近所はみんな同じ苗字ばかりだったことを思い出して、「おっきなイブキの木が庭にある家です」と付け加えた。
するとその人は「ああ、シゲちゃんのところね」と頷くのだった。
僕はなんだかわからないけど悔しくなり、口を尖がらせた。そしてあの鎮守の森の先にはなにもないと言ったシゲちゃんの言葉は、やっぱりわざとついた嘘だったんだと思った。

529 :先生 前編  ◆oJUBn2VTGE:2009/08/22(土) 00:05:35 ID:YUHlb2rI0
なぜって、その人は目が大きくて、すらっとしていて、少し大人で、それから花柄の白いワンピースが似合う、ちょっと秘密にしたくなるような綺麗な人だったからだ。
「この教室が一番ちゃんとした形で残ってるから、いつもここで教えてるのよ。探検にきて迷ったんでしょ。勉強していきなさいよ。ね、誰もこなくて、私も退屈してたから」
そうしてその人は僕の先生になった。
教室に机は五つ。一つは先生が座る席。さっきみたいに窓際で頬杖をつくための席だ。そして残りが夏休み学校の生徒の数だった。
先生はわざわざほかの教室から僕のための机と椅子を運んできてくれた。五人目の生徒ね、と言って笑った後、この学校の最後の卒業生の席がそのまま残っているのかと思ったことを話す僕に、ゆっくりと首を振った。
「最後の卒業生は二人だった。一人は私。卒業するのは寂しくて悲しかったけど、中学生になることは嬉しかったし、それから学校がなくなってしまうことが悲しかったな。マイナス1プラス1マイナス1で、やっぱり悲しい方が大きかった気がする。もう十年以上経つのね」
先生が目を少し細めると瞳の中の光の加減が変わって、ちょっぴり大人っぽく見えた。
「さあ、なにを勉強しましょうか。なにが好き?」
僕は考えた。
「算数が嫌い」
先生は僕の冗談に笑いもしないで「うん、それから?」と言った。
「社会と国語と理科と家庭科と図工と音楽が嫌い」
僕が並べた一つ一つに頷いたあと、先生は「よし、じゃあぴったりのがあるわ」と黒板に向かった。
小さくてかわいい黒板だ。チョークを一つ摘んで、キュッと線を引く。
『世界四大文明』
そんな文字が並んだ。

532 :先生 前編  ◆oJUBn2VTGE:2009/08/22(土) 00:08:31 ID:ZFtl5JP90
先生の字はカッコ良かった。今までのどんな先生よりもカッコいい字だった。だから、その世界四大文明という言葉も、凄くカッコいいものに思えてなんだかワクワクしたのだった。
「世界史って言ってね、あなたが学校で習うのはまだ先だけど、算数も国語も社会も理科も嫌いなら勉強自体が嫌いになっちゃうじゃない。勉強することなんてまだまだ他にたくさんあるんだから、自分が好きになれるものを見つけるのもきっと大事なことだと思う。ノートも取らなくていから、気楽に聞いてね」
そうして先生は僕に世界史の授業をしてくれた。はじめて体験する授業はとても面白く、先生の口から語られる遥か遠い昔の世界を、僕は頭の中にキラキラと思い描いていた。
やがて先生はチョークを置き「今日はここまで」と、こちらを向いた。エジプトのファラオが自分のピラミッドが出来ていくのを眺めている姿が遠のき、僕は廃校になったはずの小学校の教室で今日出会ったばかりの先生と二人でいることを思い出す。
「どう、面白そうでしょう」と聞かれたので、うんうんと頷く。先生はにっこりと笑うと、「よかった。実は私、大学で史学科専攻だったの。準備なしだから、算数以外だとこれしか出来なかったんだな」と言ってペロリと舌を出した。
その仕草がとても可愛らしくて、僕はショックを受けた。つまりまいってしまったのだ。
「もうお昼ね。今日はおしまい。明日はもっと早くきなさい」
だからそんな先生の言葉にもあっさりと頷いてしまうのだった。
なんだかふわふわしながら校舎をあとにして、広場ならぬ校庭で振り向いた僕を二階の教室の窓から先生が手を振って見送ってくれた。
ぶんぶんと僕も負けないくらい手を振ったあと、明日も絶対くるぞと心に誓って帰路についた。
やっぱり帰るにはあの鎮守の森を抜けなくてはならないと聞かされた時はゲッ、と思ったけれど今日あったことを思い返しながら足を無意識に動かしていると気がつくと森を抜けていた。

533 :先生 前編  ◆oJUBn2VTGE:2009/08/22(土) 00:10:17 ID:ZFtl5JP90
くる時はあんなに薄暗くて怖い感じがしたのに、今度はやけにあっさりと通り抜けてしまったものだ。
そのあと僕はイブキの木のある家に帰って、ばあちゃんが作ってくれたそうめんを食べ、放り投げていた宿題を少しやってから昼寝をして、ヨッちゃんとその友だちに混ざって缶蹴りなどをしていると一日が終わった。
その夜、シゲちゃんがいない家はやけに静かで、電気を消してから僕は蚊帳越しに天井の木目を見上げて、今日出会った先生とあの小さな学校のことを考えた。
今朝、勉強なんか嫌いで外に飛び出したのに、今は早くあの学校に行きたくて仕方がなかった。なんだか不思議だった。
次の日の朝、朝ごはんを食べるとすぐに僕は家を出た。ヨッちゃんにやっぱり「どこ行くの」と聞かれたが、「どっか」とだけ応えて振り切った。今日はリュックサックはなし。保存食がいるような大冒険ではないと分かったからだ。
昨日と同じように鎮守の森に入り、薄暗い木のアーチを潜ったけれど今日はそんなに怖くなかった。誰もいない畦道を抜け、坂道を登ると学校が見えてくる。
その二階の窓辺に先生がいる。頬杖をついてぼうっと外を見ている。僕は手を振る。今度はすぐに気づいてくれた。「いらっしゃい」「いま行きます」そうして教室に入る。
今日もほかの子どもたちはこないみたいだ。手持ち無沙汰だった先生は嬉しそうに僕を迎えて、「昨日の続きからね」とチョークを握った。
シュリーマンがトロヤ遺跡を発掘した話から始まって、エーゲ海に栄えたミケーネ文明が滅びた後、鉄器文化の時代に入るとギリシアではたくさんのポリスという都市国家が生まれた、ということを学んだ。
その中からアテネやスパルタといった有力なポリスが現れて、東の大帝国アケメネス朝ペルシアの侵攻に対抗したのがペルシア戦争。ペルシアを撃退したあとに各ポリスが集まって結成したのがデロス同盟。

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