スポンサーリンク

【師匠シリーズ】先生 後編

スポンサーリンク

748 :先生  後編  ◆oJUBn2VTGE:2009/09/04(金) 21:55:07 ID:4o0HgrnU0
先生は手にチョークを持ったまま口を開く。
「あなたは一昨日の夜、まずシゲちゃんと一緒に二人で洞窟に入った」
黒板には洞窟の絵と、丸と線だけの人間が二人描かれている。その上には①というマーク。
「一本道の洞窟の奥には顔入道の岩があって、お坊さんのミイラがあるというその先には行けなかった。二人は怒り出す寸前みたいな顔を見てから、入り口へ戻った」
行って戻った矢印が洞窟の中に描かれる。そして「怒る前」と走り書き。
「その後、タロちゃんが入れ替わりに一人で洞窟に入って行った」
②として、もう一人の丸と線だけの人間。
「洞窟の中から悲鳴が聞こえて、タロちゃんが走って出てきた。そして勢いあまって崖から落ちた」
矢印が洞窟の出口から先へ曲がって落ちた。
「タロちゃんが言うには、『顔入道が怒った』」
②の矢印が洞窟の奥でUターンする場所に「怒った後」という文字。
「次の日、つまり昨日の昼間、あなたはもう一度洞窟に行った。今度は一人で」
③だ。
「その時ちゃんと確認したけれど、洞窟は一本道で枝分かれや人が隠れるような場所はなかった。そうね?」
頷く。
「洞窟の奥には顔入道の岩があったけれど、今度は笑っていた」
先生は③の矢印の先に「笑う」と書いた。
そうだ。顔入道は笑っていた。
昼間なのに懐中電灯の光なしでは真っ暗闇になってしまう洞窟の最深部で白い顔と向かい合った、この世のものとは思えない光景を思い出し、背筋が寒くなる。
「やっぱりその時確認したけれど、岩に顔を描いた塗料は古くてとても昨日や今日に塗り替えたようには見えなかった。そうだったわね」
頷く。
先生はチョークを振り上げ、「笑う」の上に「古い」と書いた。そして「怒る前」と「怒った後」の上には「古い?」とクエスチョンマークつきで書いた。
先生はくるりと振り返り、ニッと右の眉毛と口の端を上げた。
「一昨日の夜の顔入道には、近寄って確認はしていないわね」

749 :先生  後編  ◆oJUBn2VTGE:2009/09/04(金) 21:59:21 ID:4o0HgrnU0
言われてみればそうだ。でもその後本当に岩が怒ったり笑ったりするなんてその時は思ってもみないのだから、仕方がないじゃないか。
「その顔入道のすぐ下に、白い塗料がついた岩が突き出ていたのよね。あなたが抜け落ちた牙みたいだと思ったその岩。その塗料も古かったかしら」
え? そう言えば確認していない。顔と同じ塗料だとばかり思っていたから。
「じゃあ、最近塗り替えた時についたものかも知れない」
塗り替えだって。やっぱり先生は顔が怒ったり笑ったりしたのは、誰かが岩を塗り替えていたと言うのだろうか。
「ううん。昨日あなたが確認した時には古い塗料が使われていた。だからその前に岩の塗り替えなんて行われていなかったってことは間違いない。それに、あなたとシゲちゃんが出てきた後で、タロちゃんが一人で入って行くまでのあいだに誰かが塗り替えるなんて出来っこないでしょ。入り口は一つしかないし、隠れられる場所もない。その入り口もあなたたちが見張ってたんだから」
そうだよ。その通りだけど、だったらどうして顔は怒ったんだ?
「答えは一つよ。算数みたいに。一昨日、あなたがシゲちゃんと一緒に見た顔は、岩に描かれたものではなかった」
ガンッ。
と殴られたようなショックがあった。
確かに二度目の時みたいに顔を近づけて見ていない。洞窟に入るまでに、岩に描かれたものだと教えられていたから、素直にそう思っていた。それが白く塗られたハリボテだったというんだろうか。
でも待てよ。それがハリボテだったとしても、どうして顔が変わるんだ?
「ここで思い出して欲しいのは、一昨日の昼間にあなたたちが秘密基地に集まって顔入道の洞窟に行こうって話をした時のこと」
先生はいたずらっぽい顔をして、僕を試すように見つめてきた。
思い出せ。あの時、シゲちゃんが「こいつももう俺たちの仲間と認めていいんじゃないか」なんて言い出して僕をその晩に顔入道の洞窟に連れて行こうとした。

750 :先生  後編  ◆oJUBn2VTGE:2009/09/04(金) 22:00:38 ID:4o0HgrnU0
そしたらみんな怖がって、いろいろ言い訳して逃げた。そして怖がりだと思われたくないタロちゃんがモタモタしているうちにシゲちゃんに捕まってしまったのだ。
ピン、ときた。僕の頭がなにかを閃いた。それがどこかへ行ってしまわないように必死で考えをまとめる。
あの夜、山奥の洞窟には僕とシゲちゃんとタロちゃんの三人しかいなかったはずだ。あんな場所に夜中、ほかの誰もくるはずがない。でも、だ。僕ら三人がその夜あそこにくることを知っていたやつらがいる。怖がって、「行かない」と言ったほかの連中だ。
そして顔入道のハリボテ。
わかった!
ハリボテの後ろ側に初めから隠れていたんだ。僕らが洞窟に入る前から! あんな所に誰かが待ち構えているなんて思ってもみなかった。だけど、あいつらならそれが出来る。僕らがくることを知っていたんだから。
「怒る前」のハリボテの後ろに隠れて僕とシゲちゃんをやり過ごし、その後に入ったタロちゃんがやってくる前にもう一つ用意していたハリボテと入れ替えて、「怒った後」にしたのだ。
ひょっとしたら、丸いハリボテの両面に顔を描いていて、くるりと裏返しただけなのかも知れない。
そして岩に描かれているはずの顔が怒ったことに驚いたタロちゃんが悲鳴を上げる。僕らが怪我をしたタロちゃんを担いで山を下りた後でハリボテごと撤収する……
くそう。
誰がやったんだ、こんなイタズラを。タカちゃんか、トシボウか、ユースケか、それともカッチンか。ひょっとしたら二人、ううん、あの秘密基地にいた全員かも知れない。
卑怯なやつらだ。ブッコロしてやる。シゲちゃんにもチクッて、二人で仕返ししてやる。
そんなことを僕が感情に任せて喋るのを先生はじっと聞いていたけれど、ふいにその顔色が変わった。
「ちょっと待ちなさい。今なんて言ったの」
いつもは穏やかな顔をしている先生の頬が緊張しているのが分かる。目が見開かれて、白目が大きくなる。眉毛が吊りあがる。その言葉は質問しているのではない。こちらの答えなんてどうでもいい。そんな爆発前の確認の儀式だ。

751 :先生  後編  ◆oJUBn2VTGE:2009/09/04(金) 22:02:46 ID:4o0HgrnU0
「なんて言ったの」
その声はキリキリと軋むように尖っている。
「あ、いや、えと」
いきなりの思ってもいなかった展開に僕は足が震えてきた。これからどうなるか分かるのだ。うちの担任の先生と同じだ。
僕はこの時間が一番嫌だ。なにか悪いことをして怒鳴られるのはしょっちゅうだけど、怒鳴る前の「溜め」の時間。固まったように動けなくなる時間が僕には一番怖かった。
なんでだろう。「ブッコロしてやる」がまずかったのか。それとも自分でも気づかないようなヘマをしたのだろうか。
出会ってからあんまり経っていないのに、訳知り顔で「優しい先生」だなんて勝手に思って喜んでいたのが、バカみたいだ。一体なにが先生を怒らせたのだろう。
そんなことを、やがてくる溜め込んだ怒りの爆発をただ待つ身の僕は考え、その睨みつけてくる恐ろしい視線に耐え切れず、思わず目を瞑ってしまった。
「あなた自分がなにを言ったのか分かってるの」
押し殺したような声が、ぐっと近づいてくる。
あ、ひっぱたかれる。
そう思った瞬間だ。
僕の頬っぺたに柔らかいものが触れた。ぐにっと頬肉が左右に引っ張られる。
僕は驚いて目を開けた。その目の前に、ニコッと笑う先生の優しい顔があった。
「ごめんね。怒られると思った?」
こんなに近くで見るのは始めてだったけど、前髪を短く揃えたその顔はすんなりと伸びた長い首の上にかわいく乗っていて、僕よりずっと年上だと思っていたのに、その時はほんの少し年上の女の子のように見えた。
そのせいで胸がドキドキする。怒られると思った緊張も混ざっていたかも知れないけれど。
「あなたが勘違いをしていたから、分かりやすく教えてあげようと思っただけなの」
先生はよく分からないことを言いながら、スッと僕のそばを離れて教壇に戻って行った。


752 :先生  後編  ◆oJUBn2VTGE:2009/09/04(金) 22:06:06 ID:4o0HgrnU0
「あなたとシゲちゃんが最初に見た顔入道は岩に描かれたものではなかったけれど、あなたが思ったようなハリボテでもなかった。確かにハリボテが本物の顔入道の手前にあったなら、誰も隠れる場所なんてなかったはずの洞窟に、秘密の空間が出来ることになる。そこに誰かが隠れていて、タロちゃんがやってくる前にハリボテを入れ替えれば、あっと言うまに顔入道が怒ったってことになるわよね。でも良く考えて。どうしてその誰かは後からタロちゃんがくるなんて知ってたの?」
ハッとした。
そうだ。タロちゃんは急に怖気づいて僕らが入った後に入るなんてことになったけど、それでも無理やりシゲちゃんが連れて行ってたら三人とも始めの「怒る前」の顔を見ていたことになる。
そうなれば、いくらなんでも僕らの目の前でハリボテの早がわりなんて芸当が出来るはずはないし、そのまま帰られたらせっかくのイタズラの仕掛けもパァだ。
口ぶりからすると、シゲちゃんもタロちゃんも、それからたぶんほかのみんなも一度は顔入道を見ているはずだから、なにも顔の早がわりなんてことをしなくても初めから怒った顔のハリボテを用意していれば、最初に見た瞬間に「顔入道が怒った。うわあぁ」ってことになるはずなのだ。
「そうね。それにあなたが見た、白い牙のような塗料のついた岩が重要なヒントになってるのよ」
先生はもったいぶったようにゆっくりと人差し指を立てる。
「塗料のついた尖った岩は、顔入道の岩の真下にあったのよね」
あ、と思った。
「だから抜け落ちた牙のように見えた。それも、一昨日昨日と二回見たその両方とも同じことを思ったのよね。ということは、塗料のついた岩と、顔入道の位置は変わってないってこと。ここまで言えばもう分かったかな。つまり顔入道の岩の手前にハリボテなんか作ってそのあいだに人間が隠れたりしたら、絶対にその真下の塗料のついた岩も隠れちゃうんだから……」
だから、ハリボテはなかった。

755 :先生  後編  ◆oJUBn2VTGE:2009/09/04(金) 22:11:01 ID:4o0HgrnU0
そんな結論が先生の口からスラスラと出てくる。そのこと自体に納得はいったけれど、全然事件の解決にはなっていない。それどころか余計に薄気味悪くなってくる。それじゃあ顔入道は、やっぱり勝手に怒ったり笑ったりしたってことじゃないか。
僕がぶつぶつとそう言うと、先生はうふっと笑った。
「その通りよ」
ええっ、と思わず力が抜けそうになった。そんなバカな。
「正しく言うと、顔入道は勝手に怒ったけれど、勝手には笑わなかった」
なんだか謎掛けのようなことを言いながら先生はチョークを手に持つ。そして黒板に描かれた①のマークのついた「怒る前」の文字のお尻に、「?」の文字を書き加えた。
それからこちらに振り向く。
「さっき、私に怒られそうになったでしょう?」
うんうんと頷く。なんだか楽しくなってきた。これからもっと不思議なことが起こりそうな予感がして。
「あれはお芝居だったけど、あなたはなんだか分からないうちに怒られそうになって、目なんか瞑っちゃって、観念してたわよね」
恥ずかしくて思わずカァーっと顔が赤くなりそうになった。
「これから怒るってことは、もう怒ってるってことよ」
そりゃあそうだ。大人が怒る時なんて大体パターンが決まってるんだから。目を吊り上げちゃって、僕らが答えられないようなことを問い詰めてきて、それから怒鳴りつけたり引っ叩いたりするんだ。
本気で怒り出す前に、これからどうなるかくらい分かる。
あれ? てことは、なにか変だぞ。
先生はクスクスと肩を揺すった後、イタズラっぽく僕の方に向き直った。
「あなたが最初に見た『怒る前』の顔。それは、本当は『怒ってる顔』じゃなかったの?」
ハッとした。
怒る前ってことは、怒ってるってこと。そうだ。怒りをこらえてるってことは、怒ってるってことだ。ただ爆発する前か後かってだけで。
「でも、おかしいよ。タロちゃんも前にいっぺん見てるはずなのに、『顔が怒った』なんて言って逃げてきたんだよ」

756 :先生  後編  ◆oJUBn2VTGE:2009/09/04(金) 22:14:39 ID:4o0HgrnU0
「そうね。だからその時タロちゃんが見た顔は、前に見た顔と違ってたのは確かだわ。タロちゃんが前に見た顔っていうのが、あなたが昨日一人で見た本当の顔入道の顔だったはずよ。笑っていた顔が今度は怒ってたんだもん。それはビックリするよね」
え? ってことはどういうことになるんだ。
首を傾げる僕に、先生は噛んで含めるように語り掛ける。
「言ったでしょ。あなたが最初に見た顔は、岩に描かれたものじゃなかったって。かと言って人が後ろに隠れられるハリボテでもない。白い塗料のついた尖った岩という同じ目印があるんだから、場所が違っていたわけでもない。……たぶん、厚手の紙を顔入道の岩に被せて、その上から白い塗料で別の顔を描いたのよ。笑っている顔の上に、怒ってる顔を」
その真下の尖った岩の塗料は、その時についたのね。
先生は僕の目を見ながら確かめるようにゆっくりと言う。
確かにそれならほとんどかさばらないから、抜け落ちた牙のように見えた白い岩との位置も変わらない。でもそれでは人間も隠れられなくなってしまう。
「誰かが隠れる必要なんてないのよ。顔は勝手に変わったんだから。『怒る前』から『怒った後』に。さっき言ったみたいに、『怒る前』の顔と『怒った後』の顔は全く同じものなのよ。ただ、それを見ていた人間の心理が違っていただけ」
ドキドキしてきた。だんだんと先生の言いたいことが分かってきたからだ。でも、そんな。そんなことって。
「あなたが始めにその顔を見た時、眉間に皺を寄せて、口なんかへの字に曲がって、迫力満点で睨みつけてくるその表情に驚いたんでしょ。さっき私がそんな顔をした時、あなたは怒られると観念した。なのに顔入道の時は、その顔は怒っていないと思ってしまった。さあ、それはどうして?」
その答えは分かる。今思い出した。あの時の言葉を。叫びそうになった僕を勇気づけてくれたその言葉。
『よかった。まだ怒ってない』
シゲちゃんだ。僕の隣で、あの時確かにそう言った。
シゲちゃんがこの顔入道の事件の犯人だったんだ。

757 :先生  後編  ◆oJUBn2VTGE:2009/09/04(金) 22:18:48 ID:4o0HgrnU0
僕の中ですべてが繋がって行く。先生は静かな口調でその手助けをしてくれた。
「最初からシゲちゃんのイタズラ計画だったのよ。それも本当は臆病なのに口ばっかり強がりなタロちゃんを標的にした。私が秘密基地の話を思い出してと言ったのは、顔入道をその晩に見に行こうなんて言い出したのがシゲちゃんだったってことを思い出して欲しかったの。あなたは変な勘違いをしたみたいだけど」
僕は椅子に座り込んでじっと先生の説明を聞いていた。
春ごろに顔入道の噂を聞いて見に行った悪ガキ仲間は洞窟の奥で笑っている顔を見た。そしてイタズラ好きでしかも手先の器用なシゲちゃんがその顔を怒らせることを思いつく。
紙を貼り付けてその上からペンキかなにかで顔を描き、その準備が終わった後に、新入りの僕を連れて行くという名目でみんなを誘う。標的は生意気なタロちゃんなのだから、ほかの臆病者たちが逃げても構わない。
むしろ大勢で行ってしまう方がみんな変に気が強くなってしまって、マジマジと見られて細工がバレてしまう可能性があったのだから好都合だ。
首尾よく三人で洞窟に辿り着いた時、タロちゃんが入りたくないとゴネだす。
無理やり引っ張っていく手もあったが、そこでシゲちゃんは名案を思いつく。笑っている顔を見ていない僕を連れて先に入り、タロちゃんには後からこいというのだ。
承知したタロちゃんを残して洞窟に入ったシゲちゃんは、怒っているような顔を見て驚く僕に『よかった。まだ怒ってない』と言って安心させる。そう言われればそう見える顔だったから。
当然僕は前にシゲちゃんたちが見にいった時の顔のままだと思った。しかし約束通り後から入ったタロちゃんにとっては、まさしくそれは笑っていたはずの顔が怒った後の顔だったのだ。
そして悲鳴を上げて逃げ出す。ここまでは計画通りだったのに、まさか洞窟から飛び出して崖から転落してしまうほどタロちゃんが怯えてしまうとは思わなかった。
怖くなったシゲちゃんは自分のイタズラだったことを誰にも言わずに、次の日こっそり仕掛けを片付けに行った。僕が笑っている顔を見たのはその後だったのだ。
そう言えば昨日、シゲちゃんは僕より先に家を出ていた。懐中電灯も見あたらないはずだ。なんてこった。シゲちゃんが全部。全部やっていたのか。


759 :先生  後編  ◆oJUBn2VTGE:2009/09/04(金) 22:25:50 ID:4o0HgrnU0
僕は呆然として説明に聞き入っていた。
「笑っている顔の塗料が古かった時点で、怒っていた方が張り子なのは間違いないわ。そしてその張り子を見て、『どうってことない。こないだと一緒』なんて言ったシゲちゃんがその仕掛けを知っているのも間違いない。もし春に見たという顔もその時点ですでに張り子だったとしたら、同じ顔を見たことになるタロちゃんの過剰な反応に説明がつかないしね。あとは推理を広げれば簡単だわ」
先生は黒板に点を三つ、カン、カン、カン、と書いた。
「ゆ・え・に、犯人はシゲちゃん。この点三つのマーク∴はもう少し後で習う記号なのよ」
チョークをそっと置いた先生が静かにそう言った。その記号も、チョークを置く指も、眉毛の上に揃えられた髪も、その時の僕にはなにもかもカッコよかった。
見とれる僕に、不思議そうな顔をして先生は首を傾げた。
太陽はゆっくりと高く昇って行き、教室に伸びる陽射しは机や木の床から少しずつ引いて行った。
その後、僕は算数の続きをやった。同じ問題なのに、教えてくれる人が違うだけでこんなにも楽しいなんてなんだかおかしい。
せっせと問題を解く僕のそばで、先生は鶴を折っていた。そしていくつか数がまとまると立ち上がり、窓際に掛けた千羽鶴にまた仲間を増やすのだ。それをずっと繰り返している。
僕はいつかは夏休み学校の子どもたちの風邪が治ってここが二人だけの空間でなくなることも、そして朝が昼になりそれから午後になるように、夏もいつかは終わり、僕がここを去る日がくることも信じたくなかった。
だから、今日が先生に出会って何日目なのか数えたことはなかったし、その毎日はふわふわとした夢の中にいるようだった。
一体いつからほかの子どもたちが風邪を引いているのか、考えたことはなかった。先生の時どき見せるぼんやりしたそしてどこか哀しい表情も、その奥に隠れたもののことも理解しようとはしなかった。
ただひたすら僕は問題を解いた。歴史を知った。夏の中にいた。
「よく出来ました。じゃあ今日はここまで」
先生が僕の答案を見てそう言った。もうお昼過ぎだ。夏休み学校の時間もおしまい。僕は帰り支度をしながら、なんとなく口にした。

スポンサーリンク