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【師匠シリーズ】すまきの話

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934 :すまきの話 ◆oJUBn2VTGE:2009/06/20(土) 23:22:26 ID:sgJKT7Op0
ただごとでないことだけは分かっていた。俺の個人的でささやかな世界が致命的な傷を負い、もう元の形に戻らないだろうことも。ただ、血を見ても反射的に救急車という発想は浮かばなかった。
今自分のするべき最善のことは、ただ指示されたことを全うすることだと直感したのかもしれない。
頭に電流が走ったような軽い痛みの後、俺は目覚めたように走り出した。ゴミ入れから立ち上る生臭い匂いを鼻腔から振り払うように。
公園を出て、入り口の外にとめてあった自転車に飛び乗る。
大変なことになった。
大変なことになった。
力一杯ペダルをこぎ出しても、頭は混乱したままだった。
これは夢ですね?
夢なわけはない。恐ろしいくらい、リアルだ。匂いも、音も、足に、太股に乳酸が溜まっていく感じも。なにもかも。
今日一日の記憶を呼び覚ましてみる。けれど一分の隙もなく繋がっているのが分かる。さっきまでネットで検索していたサイトのことも、その前に食べたカップ麺のことも、それを食べながら高校時代の友人と電話で話したことも、鮮やかに思い出せる。
ということは、じゃあ……
そこで思考が断ち切られる。いや、押しとどめているのか。
師匠に「綾」と本名で呼ばれた歩くさんのマンションへ真っ直ぐに向かう。
途中軽い下り坂があり、スピードを維持したまま強引にGに逆らってカーブを曲がろうとした時、前から来る通行人とぶつかりそうになった。
驚いた表情のその人をなんとかハンドル操作で避けたが、バランスを崩して自転車から投げ出される。
一回転して尻を打ち、思わず右手をアスファルトについてしまって皮が擦りむけた。鋭い痛みに襲われる。
痛い。すっごい痛い。くっそう、と誰にとも知れない悪態が口をつく。
「危ねえな、こら」

935 :すまきの話 ◆oJUBn2VTGE:2009/06/20(土) 23:26:16 ID:sgJKT7Op0
茶髪の若い兄ちゃんが髪の毛を乱れさせたまま近寄ってくる。俺は飛び跳ねるように立ち上がると、彼にすがりつく。
「今日のこと覚えてますか。昨日のこと覚えてますか。自分で自分のことがわかりますか」
彼はすがりついてきた俺に一瞬身構えたが、すぐに動揺してその手を振りほどこうとする。
「バカじゃねーの。なんなのお前」
ドシンと俺の肩を両手で突き、踵を返すと早足で去っていった。途中、何度か気持ち悪そうに振り返りながら。
残された俺は擦りむいた右手と擦りむいていない左手を並べて観察する。
掌の傷の中に、小さな石が埋まっているのをなんとかほじくり出す。
痛い。
なんでこんなに痛いんだ。
泣きたくなるような、寒気がするような、耐えられない感じ。とにかく動きだし、倒れている自転車を引き起こして跨る。
夜の道を走る。ひたすら走る。信号に引っ掛かり、トラックが通り過ぎて次のヘッドライトが近づくまでのわずかな隙間を突っ切る。
遅れて鳴らされた意味のないクラクションを背中に聞きながら前へ前へとこぐ。
息が上がり、スピードが落ち始めたころにようやく歩くさんのマンションが見えてきた。
明々とした街灯の下を通り、いつもとめている駐輪場に行く時間も惜しくて道端にそのままスタンドを立てる。立てる時、サドルを押さえる右手に痛みが走った。
顔をしかめながら玄関へ向かう。入り口のセキュリティーはない。中に入ってから、部屋の明かりがついているか外から確認した方が良かったことに気づいたが、戻る時間も勿体ないのでそのまま階段を駆け上がる。
部屋番号を頭の中で繰り返しながら誰もいない通路を走る。足音だけがやけに寒々しく響いている。

936 :すまきの話 ◆oJUBn2VTGE:2009/06/20(土) 23:27:43 ID:sgJKT7Op0
向かう先をじっと見つめると、目的の部屋から細い光の筋が伸びている。ちょうど天井の蛍光灯が消えていて薄暗い一角だったから、そのわずかに漏れ出る光を視認することが出来た。
いる。中にいる。
関門を一つ越えた感じ。
でもたどりつくべき場所も、道の全貌もまったく見えない。自分の世界が負った致命的な傷を、復元するための道が。暗夜の中の行路が。見えない。
叫びそうになる。
口を押さえる。
ドアを叩く。
ガンガンガン。
ドアを叩く。
ガンガンガン。
「いませんか」
焦っていると、チャイムなどというものはおもちゃにしか見えない。早く出てくれ。慌ただしく叩かれるドアの音というのは誰だって嫌なものだから。
ガチャリ……、というカギが回る音に続いて、キィ……と微かに軋む音と共にドアがゆっくりとこちらに開かれていく。中からは、怯えたような表情の女性。
「助けて下さい」
顔を見るなり、そう言おうとして、息が止まる。違うからだ。言うべき言葉は、確か、
「これは夢ですね」
うっすらと冷え、張りつめたような空気が室内から外へ流れ出てくる。
普段着のままの歩くさんは首をかしげながら一歩下がる。つられて俺も玄関口に入り込む。
歩くさんが手を離したドアが、支えを失って俺の背後でバタンと閉じた。
歩くさんはもう一歩下がる。靴を脱がなければ上がれないので、俺はその場で止まったままだ。二人の間にある程度の距離が生まれる。
どうやらこれが、歩くさんのパーソナルスペースらしい。


937 :すまきの話 ◆oJUBn2VTGE:2009/06/20(土) 23:30:08 ID:sgJKT7Op0
「ケガ」
と歩くさんがこちらを指さす。見ると右足のズボンの膝が破れていてる。掌の痛みばかりに気をとられて気が付いていなかった。
「待ってて」
薬箱でも持ってこようとしたのか、そう言ってくるりと踵を返そうとした彼女を、呼び止めるように口を開いた。
「これは夢ですね」
ぴたりと動きを止めて、彼女はもう一度こちらに向き直る。
「どういうこと」
いつも表情に乏しい彼女が、眉を寄せる。
あの、公園で見た光景を説明しようとして息を吸い込んだ。けれど俺はそれきり言葉につまる。それを言葉にしてしまうと、まるで取り返しの付かない恐ろしい幻を、現実にしてしまうような気がして。
俺はとっさに本を探した。雑誌、いや新聞でもいい。なにか、膨大な情報の詰まった紙が欲しい。昔自然に身につけた、夢の中でそれが夢であると気づくための技術だ。
ほっぺたをつねるとか、なにか特定のキーワードを叫ぶとか、みんなそれぞれ夢を認識するための、あるいは夢から目覚めるためのコツのようなものを持っている。
俺の場合はそれが本を読むことだった。そこに書いてあるべき情報量を、とっさに夢を再生している脳が提供できないから、まるでボロが出た狐狸の類のように夢の世界が壊れるのだ。
しかし、歩くさんの部屋は小綺麗に片づけられていて、玄関とそこに続く台所周辺には本や雑誌類はまったく転がっていない。ドアに付属している郵便受けからこぼれ出た新聞がそのまま玄関に放置されている俺の家とは大違いだ。
説明の代わりに、俺は師匠から託された言葉を繰り返した。
「これは夢ですね」
歩くさんは、どうやら大変なことが起こったらしいと判断したのか、口調を強めて「だから、なにがあったの」と言う。

939 :すまきの話 ◆oJUBn2VTGE:2009/06/20(土) 23:32:49 ID:sgJKT7Op0
けれど今の自分の中にはその言葉しか存在していない。だからもう一度繰り返す。
泣いているらしい。声が震えている。誰が? 自分が? どうして?
「落ち着いて。夢って、あなたの夢ということ? だったら違う。だって……」
歩くさんはそこで言葉を切って口の中で続きをゆっくりと吟味した。
「まず、私には自我がある。自分の意思で今喋っている。これがあなたの夢ならば、ずっと続いている私の意識が、あなたの頭が生み出したつくりものだということにならない? そんな怖いことは考えたくないけど。自分のほっぺ抓ってみた?」
俺はかぶりを振る。
「というか、抓るより痛い目にあったみたいね」
血が床に滴っているのを見つめる。
「これは夢ですね」
「だから、違う。夢じゃない」
「これは夢ですね」
「なんのことなの。なにがあったの」
「これは夢ですね」
「違うっていってるでしょ。夢かどうかくらいわかるでしょう。夢の中でこれが夢だと気づいたことはあっても、夢の中でこれは現実だと気づいたことはあった? ないでしょう。今、ここにいることが現実だと知っている私にとって、これが夢じゃないことくらいわかりきってる」
「これは夢ですね」
「いったいなにがあったの。そう言えって誰かに言われたの?」
「これは夢ですね」
「答えなさい」
「これは夢ですね」
「ちょっと待って。……ホラ、電卓。適当に数字を打つよ。24587×98564=2456395168。夢なら、こんな計算一瞬で出来る? でたらめな数字じゃないってことを検算して確かめましょうか?」

940 :すまきの話 ◆oJUBn2VTGE:2009/06/20(土) 23:36:54 ID:sgJKT7Op0
「これは夢ですね」
「夢じゃない」
「これは夢ですね」
「……どういえばわかるのかな。なにか急いでしなくちゃいけないことがあるんじゃないの」
「これは夢ですね」
「怒るよ」
「これは夢ですね」
「いいかげんにして」
「これは夢ですね」
歩くさんはなにか言おうとして、それを止め、深いため息をついた。
「どうしてわかってくれないの。これが夢だってことはどういうことかわかる? 現実だと思っている今の自分が、贋物だってことよ」
疲れたように、壁にもたれかかる。
「あなたにとって現実ってなに?」
黒い瞳が真っ直ぐ向けられる。
「よく考えて答えなさい。するべきことは、その怪我の手当をして、問題を一緒に解決することではないの?」
俺は一歩、土足で彼女の空間に近づいて、言った。
「これは夢ですね」
その瞬間、彼女は表情を歪め、蒼白になった顔を突き出した。
そしてたった一言、
「よくわかったわね」
と言った。
静かな声だった。
世界は暗くなった。
目は開いている。
薄闇の中、天井が見える。
瞬きをする。

946 :すまきの話 ◆oJUBn2VTGE:2009/06/20(土) 23:48:56 ID:sgJKT7Op0
背中に、畳の感触。 身体を起こす。
師匠の部屋だ。明かりの消えた室内に、毛布にくるまった歩くさんと簀巻きになった師匠がいる。
胸がドキドキしている。静かな夜の空気に漏れ出るくらい。
簀巻きの師匠から、乱れた呼吸の気配がした。
呼びかけてみる。
反応はないが、あきらかに寝たふりだ。
抜け出ようとしてもがいている時に、俺がいきなり起き上ったから驚いたというところか。
簀巻きをバシバシと叩く。
「わかった起きてる。起きてる」
師匠に、今あったことを伝えた。
最後まで身じろぎせずに聞いていた師匠は、ひとこと「巻き込まれたな」と言った。
脳裏に、以前あったことが蘇る。
冬に夢を見た。恐ろしい夢だった。現実の続きのような。
けれど目が覚めたとき、時間が巻き戻っていた。俺は恐ろしい夢が現実にならないように、別の選択をした。あのときも歩くさんと同じ部屋で寝ていた。
歩くさんの見る予知夢に巻き込まれたのだと師匠は言う。
あの、公園のベンチのそばのゴミ箱がフラッシュバックする。
あの匂いの生々しさも、夢だったのか。
怪我をした痛みも。今が現実だと思ったあの判断も。
では、今の自分はどうだ。
手のひらを広げてじっと見つめる。あれが夢ならなにも信じられないじゃないかと思う。
油汗が流れる。
俺は歩くさんの不思議な力について、ずっと重大な勘違いをしていたのではないかという予感がした。

949 :すまきの話 ◆oJUBn2VTGE:2009/06/20(土) 23:56:39 ID:sgJKT7Op0
「とにかく、これ、ほどいて」
師匠がモジモジする。
「だめです。ほどくと死ぬらしいですから」
そう言ってから気づく。
「心当たりは?」
「え?」
「命の危険があるような目に遭う、心当たりです」
師匠は考えるそぶりを見せていたが、やがて首を振った。
「今夜は夜遊びをするつもりだったけど、行く先は決めてない」
今夜こうして簀巻きにされて行けなかった場所に、明日行くのだろうか。そして恐ろしい目に遭う?
「僕が行くとしたら、あそこかな。いや、あの心霊スポットも行ってみたかった」
師匠はぶつぶつと呟いている。
「いずれにしても、洒落にならないなにかが夜の街にいるらしいな」
あっけらかんとそう言う。
そうして毛布に包まって寝ている歩くさんに視線を向けた。
ぼそりと言葉が漏れる。
「いいか。もう絶対にこいつにあの言葉は言うんじゃない」
「あの言葉?」
「しつこく繰り返したっていうあれだ」
「はあ」
「わかるだろ。こいつが今夜ここへ来た理由が」
なんとなく、わかる。
うまい言葉が出てこない。
結節点。いや、違う。楔か。
巻き戻りを止める、楔。
そのタイミングをなんらかの予感で彼女は知り、こうして俺たち三人をこの部屋に揃えたのだ。

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