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【師匠シリーズ】未 本編2

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416 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE:2012/01/07(土) 23:06:25.89 ID:HrRb/QUY0
恐々と下に降り、移動できる範囲で周囲を見て回る。一階には事務室の奥に従業員の仮眠室があり、仲居が寝ているはずだが、井口親子は本館のそばの離れに住んでいるはずだった。
そして本館のすぐ裏には戸叶家の住宅が接していて、女将や楓はそこで寝ているはずだ。
昔は家族は多かったはずだが、二人いたという女将の弟もそれぞれ独立して家を出てしまっていて、四年前に楓の祖母を亡くしてからは、母子二人だけの暮らしになってしまったという。
さぞ寂しいことだろう。
そんなことを思いながら事務所の中を覗いてみると、電話機に接続されたFAXが受信可能な状態であることを示す緑色のランプがチカチカと灯っていて、その光だけが暗い部屋に瞬いていた。
遠くから換気扇を回すモーター音が聞こえる。大浴場の方だろう。
そっちも見に行かないと。
そう思ったが思いのほか億劫で、後にしようかと玄関ロビーのソファーに腰掛けると、そのまま立ち上がりたくなくなった。
不思議なものだ。
ついこの四月に、普通の学生生活が始まったばかりだったのに、いつの間にこんな遠くの温泉宿に泊まりに来て、深夜に誰もいない玄関で得体の知れないものを見張るようなことになってしまったのだろう。
空調の機能を時間帯で落としているのだろうか。肌寒さを感じながらしばし物思いに耽っていると、ふいに玄関の外からなにかの物音がした。
どきりとして立ち上がり、恐る恐る玄関の自動ドアにかけられたカーテンの隙間から外を覗き込む。
旅館の敷地の中の、背の高い街灯が丸い明かりを灯しているその下に、なにものかが動く影が見えた。
自動ドアは、電気スイッチが切れている。しかし僕らがそこからも外に出られるように、今晩だけはロックがされていないはずだった。
二枚の厚手のガラスが合わさるその隙間に指先を入れ、力を込めるとドアは手動でわずかずつ開いていった。
瞬間、冷気が顔に吹き付けてくる。通り過ぎようとした人影がびくりとしたように立ち止まる。
「楓さん」
声を掛けられた相手はスクーターを押して歩いていたところだった。
「わ、びっくりした」
それはこっちのセリフだ。まだ帰ってなかったのか。もう時刻は二時半を回ってい

417 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE:2012/01/07(土) 23:08:40.21 ID:HrRb/QUY0
「今夜は寝ずの番なの? あの人は?」
「交代で番をしてるんですよ。今は部屋で寝てます」
そばに近づくと、アルコールの匂いがした。
「飲酒運転」
そう言って指でバツを作ってやると、「堅いこと、言いっこなし」と楓は笑った。それから声をひそめて、しばしのあいだ立ち話をする。今夜はかなり楽しく遊んだようだった。
その中でふと、なんの気なしに僕は問い掛けた。
「和雄さんのこと、どう思ってんの」
女将は明らかに二人をくっつけようとしている。そして周囲もそれを追認しているようだ。もちろん和雄自身も。しかし若者にとって重大なイベント日に、女友だちとの遊びを優先した彼女の心理はどういうものなのだろうか。
楓はう~ん、としばし唸った後、ぼそりと言った。
「和にぃは、堅物すぎ」
まあ、そこが今どきの男には珍しいんだけど。そう言いながら両手の手袋を片方ずつ脱いでいく。
「もう少し強引じゃないとね。今日だって……」
そう言いかけたところで、おっと、という表情をした。
「まあ、その上の修にぃよりはまだクダケてるけど」
じゃあ、お休み。
そう言って手を振りながら楓はスクーターを押して旅館の裏手へと消えていった。
表の道路と同じように舗装されているので、道が悪いわけではない。ただ客商売をしているので、深夜に帰宅する時は手前でエンジンを切ってくるのだろう。
酔ってはいても、身についた習慣があるのだ。なかなかしっかりした子に思えた。
そんでもって、脈有りだなあ、和雄さん。
僕はしばらくそこに佇んだ後、周囲になんの気配も感じないのを確認してから旅館の中に戻って行った。
空調は弱いが建物の中はさすがに寒空の下とは雲泥の差だ。生ぬるい空気の流れが周囲を包み、わずかな照明だけがロビーの椅子や置物を闇の中に浮かび上がらせている。
なにかが違う。さっきまでと。
立ち止まった僕の心臓がわずかずつ早く脈打ち始める。
なんだこの気配は。

418 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE:2012/01/07(土) 23:11:20.50 ID:HrRb/QUY0
息を殺してあたりに目を配る。なにも見えない。動くものも。静止している異物も。
そっと大浴場の方へ足を向ける。ポケットからペンライトを取り出してスイッチを捻る。暖簾をくぐり、脱衣所、浴場、露天風呂と進む。すべて出入り口のロックは外されていた。
師匠もみんなが寝静まってからこのあたりもすべて見回りをしただろうか。
ブーン…… という換気扇の音が自分の呼吸音と混ざる。露天風呂の湯はまだ温かく、湯気が寒気の中に立ち上っている。黒々とした植え込みの影がそれを囲んでいる。
なにも出ない。風呂場を出て、客室へ向かう廊下を足音を忍ばせて歩く。
窓から中庭が見通せる。どの場所も、どの場所も、神主の姿形をしたこの世のものならぬものが現れたという場所だ。
さほど広くないこの鄙びた旅館で、余りにも多くの目撃談がある。これではかえって探し辛い。どこに重点を置いて良いのか分からない。
場所ではない。場所に憑いているのでは、ない。
では一体なにに?
僕は息を殺しながらロビーに戻る。フロアの中ほどに置かれたテーブル。その椅子に腰掛けて玄関のドアの方を向いて座る。
時間がゆっくりと過ぎていく。
なにかいる。わだかまった気配が、それでも形を成さぬように煙か、あるいは水蒸気のような姿で旅館の中を蠢いているようだ。
その姿勢のまま僕は固まり、永遠とも思える時間が流れていった。
朝は、まだか。
いつの間にかそればかり考えていた。繰り返し、繰り返し、そればかり。外はまだ暗い。未だ夜に棲む住人たちの世界。
異世(ことよ)に棲まうものたちの……
…………
いる。
誰かが廊下の隅に立っている。背後に目をやらずとも、それが分かる。いつの間にいたのか。
音も立てず、声も掛けず。じっとそれは立っている。
どんな姿をしているのだろう。
身体が動かない。夢の続きのようだ。目覚めたと思っていた、あの夢の中の。
いや、自分は本当にその後に目覚めたのか。本当はずっと身体はあの和室の布団の中にいるのではないか。
ではここでこうしている自分は誰だ。
ああ、思考がぐちゃぐちゃだ。


420 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE:2012/01/07(土) 23:13:41.51 ID:HrRb/QUY0
誰だ。自分ではない。立っているのは。誰だ。
トットット…… と早いリズムで胸が脈打つ。
動いた。
近づいてくる。
ロビーの隅の暗がりから、それがゆっくりとこちらに近づいてくる。音はない。畳の上のように、その踏み出す足は音を立てない。
ただすーっと気配だけが玄関へと向かうのが分かる。
その途中に、僕がいる。玄関のドアに向かって座っている僕が。気配は止まらない。なにかが起こる。なにかが。
その予感が自分の中で膨張する。そしてそれが弾けそうになった瞬間、僕の耳は確かにその音をとらえた。
鐘の音。
遠く、そしてたなびく様な微かな音の波が乾いた空気を震わせる。
明け六つだ。境界を超えたのだ。
朝六時と決められた現在のこの土地の時の鐘は、この冬場には『彼は誰(かはたれ)』の薄明よりも早く鳴らされるのだ。
いや、外に出れば山の端の空は白みがかっているかも知れない。しかし、玄関のカーテンを閉めたロビーにいてはその微妙な時の移ろいを感じることはできない。
しかし、明け六つだ。確かに人と物の怪の世界を分ける、狭間の時間が終わったのだ。僕は全身の力が抜けるような安堵を覚えた。
鐘の音は続いた。二つ目。そしてその余韻が消え去った後に、三つ目が。それを数えながら、僕は振り返ろうとする。
さっきまであった背後の気配はとっくに消えてい……
その瞬間、心臓が止まりそうになった。
消えていない。気配は、すぐ真後ろまで来ていた。背筋の皮膚が総毛立つような恐怖に襲われる。
なんで。
頭の中にボールペンの先が目にも留まらないような高速で走る。ぎゅるぎゅるという擬音。
す…… 捨て鐘だ……っ!
なんで忘れていたんだ。僕は知っていた。知っていたのに。
明け六つの六回の鐘が撞かれる前に、これから時を告げることの先触れとして、鳴らされる鐘があった。

421 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE:2012/01/07(土) 23:18:06.02 ID:HrRb/QUY0
三回の捨て鐘。つまり明け六つは九回鐘が鳴らされるのだ。その最初の三回は、明け六つよりも前、つまり境界の上にある時刻。
それが鳴り終わるまではヒトの支配する時間ではなく、未だたゆたう、狭間の時間に属しているのだ。
背中に、氷のように冷たい気配が触れた。つま先から頭の天辺まで、なにかが走りぬけた。
鐘の音。
四回目の。
その瞬間、背後から触れた気配はそのまま僕の身体を突き抜け、突き抜けながら消えて行った。明け六つの始まりと同時に。
その気配は視覚的には全くとらえることはできなかった。しかし確かに、なにか得体の知れないものが、消えながら玄関の外へ向かうのを感じていた。
その気配に突き抜けられた部分の体温が根こそぎ持っていかれたような気がした。いや、体温だけではなく、生気というか気力というのか、なにかそういうものもベリベリと剥ぎ取られたかのようだった。
気配が完全に消え去り、九回目の鐘の音を聞き終わっても僕はその場で動けなかった。椅子に腰掛けたまま、悪寒が全身を駆け回るのをじっと感じている他なかった。
「おい」
いきなり後ろから肩を掴まれる。師匠がいつの間にか息を切らせて後ろに立っていた。「出たのか」と訊かれて必死で頷く。師匠は舌打ちをすると、周囲を警戒するように見回す。
あのなにものかの気配を感じて布団から飛び起き、そのまま部屋から走ってきたのだろうか。
「神主か」
「たぶん」
はっきりは分からなかったが、最後に本物の明け六つの始まりと同時に消え去りながら、その瞬間に神主の着るような装束を身に纏っているのが見えた気がした。そのことを切れ切れに説明する。
「そうか。後で状況を詳しく教えてくれ。とりあえず部屋で休め」
ヒューヒューと胸の真ん中から体内の空気が抜けていくような錯覚があった。
「大丈夫だ。すり抜けただけなんだろう? 襲われた感じでもないしな」
そう言いながら師匠はズボンのポケットから金属製の薄いケースを取り出した。さらにその中から半紙を畳んだようなものを摘み出す。

422 :未 本編2 ラスト ◆oJUBn2VTGE:2012/01/07(土) 23:20:31.49 ID:HrRb/QUY0
「これ飲んで寝ろ」
蓋の形に折り込まれた部分を捲ると、中には粉薬のようなものが詰まっているのが見えた。
「なんです、これ」漢方薬のようなものだろうか。
「言ったらプラセボにならないだろう」
言っているし…… 偽薬と。
ともかく僕は師匠からその薬を受け取り、コップに汲んできてくれた水で喉に流し込んだ。苦かったが、気のせいか悪寒が溶けていくような感じがした。
少し楽になって、なんとか立ち上がり、二階の階段に足をかけた。そのとき玄関フロアの明かりが完全に灯り、「おはようございます」という声とともに女将がフロントの奥から顔を覗かせた。
僕は蚊の鳴くような返事をして、師匠が女将に何ごとか話かけるのを尻目に階段を上がり、眠るために部屋に戻っていった。

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