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【師匠シリーズ】古い家

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543 :古い家   ◆oJUBn2VTGE:2008/06/29(日) 00:36:59 ID:9x5Yw4U+0
壷はあんまり静かに立っているので座っているように見える、と言ったのは誰だったか……
どちらにしても黄色い照明が照らす地の底で一人きり壷に呑み込まれた僕は身を丸め、重い石でそらに蓋をされるのを見ていることしかできない。
そうして一切の明かりのない世界に閉じ込められた僕は、遠ざかっていく足音を聞く。
それからやがて、自分のいる場所が地の底とは思えなくなってくる。
もっと下が、あるような気がしてくるのだ。

「どうした」
と呼ばれ、我に返る。
師匠が懐中電灯を下に向けながら、ソロソロと足を階段に掛けていく。
僕もそれに続く。
ギイ、ギイ、と古い木が軋む音。
2階から1階に降りる階段とは違う。
たとえ外が見えない建物の中でも、地中へ入っていく階段は確かにそれと分かる。
皮膚感覚で。
あるいは臓器で。
階段は急だ。
1段1段が物凄く高く、また足を置く踏み面も狭い。
下を見ると、ほとんど垂直に降りているような錯覚さえ抱く。
足を滑らせたら、大変だ。
そう思って慎重に一歩一歩進めていく。
すぐに壁に突き当たる。
右側に開いた空間に回りこむとまた下に伸びる階段が続いている。
ただの折り返しだ。
「地下で醤油でも寝かせてるのかな」
師匠が呟いたが、そうは思えない。
醤油が湿気の多い地下で保存するのに適したものとは思えないし、なにより入り口が押入れに隠されていたというのが不穏当だ。
地下から吹き上がってくる微かな風が、頬に触れる。

545 :古い家   ◆oJUBn2VTGE:2008/06/29(日) 01:02:27 ID:9x5Yw4U+0
黴臭い匂いが鼻につく。
すぐにまた壁に突き当たった。
師匠がゆっくりと明かりを右側へ向けていく。
「おい」
という声。
僕もそこに並ぶと、下に伸びる階段が目に入る。
まだ下があるぞ。と師匠が呟く。
懐中電灯に照らされる下には、また同じような漆喰の壁が光を反射している。
そしてまったく同じように右側の空間が光を吸い込んでいる。
「どこまで地下があるんだ」
僕らはその階段を降りていった。
ギイギイという木の音と、風の音。
薄汚れた漆喰の壁と、またくるりと折り返されて続く道。
2回。3回。4回。5回。6回。
折り返しの数を数えていた僕は、頭の中に虫が飛ぶような奇妙な雑音が入ってだんだんと次の数字が分からなくなる。
7回。8回。9回。次は10回だ。10回。10回だ。ああ。また階段が。これで11回だから次で。いや、今ので10回じゃなかったか。次で……
先へ進む師匠が、急に足を止めた。
天井に懐中電灯を向ける。
「煤だ」
天井と言っても、それは低く斜めになって下へ伸びる木製の天板。
僕らが降りてきた階段の底板が、その下の階の天板になっているのだろう。
その天井一面が、薄っすらと黒くくすんで見える。
「気づかなかったけど、足元も煤でいっぱいだ」
頭の中に、蝋燭を持ってこの階段を降りる人間のシルエットが浮かんだ。
いったいどれほどの長い時間、この地下への階段が使われていたのか。
師匠が身体を屈めて踏み面を凝視する。

547 :古い家   ◆oJUBn2VTGE:2008/06/29(日) 01:06:56 ID:9x5Yw4U+0
「おい。見てみろ。積もった埃と煤に、薄っすら踏み荒らされた跡がある」
「そりゃあ、この家の人が昔、出入りしてたでしょうから」
「でもあの上の家屋の荒廃っぷりからしたら、この階段も使われなくなって相当時間がたってるはずだ。煤はともかく、埃が溜まっているはずなんだ。その上にどうして足跡がついている?」
誰か、この下にいるのか。
今でもここを昇り降りしている人間がいるのだろうか。
『この世のものとは思えない呻き声が聞こえる』という噂。
あれは、この階段を吹き抜ける風の音ではなかったのだろうか。
いや、僕の頭はその時、同時にまったく別のことを想像していた。
それは、折り返しの回数を数えている間に脳裏をよぎった薄気味の悪い考えだ。
何度か振り払おうとしたが、今、目の前の誰のとも知れない微かな足跡を見て、それが言葉を成した。
これは、”僕らの足跡ではないだろうか”、と。
その瞬間、ぞわぞわと背筋に嫌な感覚が走り、僕は立ち上がった。
「上、見てきます」
師匠にそう言い置いて、もと来た階段を昇り始める。
まるで壁のように立ち塞がる急峻な1段1段を、両手をつきながら昇っていく。
1つ。2つ。3つ。4つ。
折り返しをいくつ繰り返せば、元の押入れに出るのか。
僕らは降り続けていたはずのに、何故か同じ場所をぐるぐると回っていたのではないか?
そんなはずはない。
そう思いながら、バタバタと音を立てながら駆け昇っていく。
苦しい。息が切れる。
そして暗い。何も見えない。しまったな。明かりを借りてくれば良かった。
何度目の折り返しだっただろう。
ふいに僕の耳は女性の悲鳴を聞き取った。
下だ。


548 :古い家   ◆oJUBn2VTGE:2008/06/29(日) 01:11:02 ID:9x5Yw4U+0
師匠の名前を叫びながら、踵を返して再び階段を駆け降りる。
足がもつれて階段を踏み外しそうになりながら僕は急いだ。
ガタタタタと、ついに尻餅をついて半ば滑り落ちながら師匠の持つ懐中電灯の光を視界に捉える。
「ど、どうしました」
顔をしかめながらようやくそう言った僕に、師匠は少しバツが悪そうな調子で「いや、蜘蛛が」と言って壁際の天井の隅に巣を張る蜘蛛の姿を照らし出した。
僕はホッと息をつきながらも、その大きな背中の模様が人の顔に見えて思わず目を逸らす。
「なあ」
と師匠が小声で話しかけてくる。
「上でも、蜘蛛がいただろう。蜘蛛の巣もいっぱいあった」
何を言い出したのかと思って、先を待つ。
「ここでもそうだけど、その蜘蛛の巣は全部天井とか柱の上の方にあって、私らの顔にベタってついたりはしなかったな」
そうだった。
そうだったが、それは言われてみると確かになにか変だ。
「ヒトが通る空間にだけ蜘蛛の巣がないってことはさ。誰かそこを通ってるってことじゃないか」
たとえば、ここも。
師匠がまた下への階段を照らす。
ひくっと、喉が鳴った。
それは僕のだろうか。
それとも師匠のだっただろうか。
あ、まずい。この感じは。
師匠が「戻るか?」と囁いた。
僕は「行きましょう」と応える。
止まるべき所で止まれない感じ。
それは確実に僕の寿命を縮めているような気がした。

549 :古い家   ◆oJUBn2VTGE:2008/06/29(日) 01:14:05 ID:9x5Yw4U+0
ミシ、ミシ、という音とともに再び僕らは地下へ降り始めた。
蜘蛛の巣を見上げながら角を曲がると、階段はまた下へ続いている。
なんだこれは。
いくらなんでも深すぎる。
これだけ地下へ穴を掘ると水が出るはずだ。
大きな水脈に当たらなかったとしても、水の浸入を防ぐためには壁を何重にもしなくてはならないだろう。
そんな面倒なことをしてまで地下へ降りる階段を作る、どんなメリットがあるというのか。
それもおそらく明治時代以前の工法で。
壁に当たって、折り返す。
壁に当たって、折り返す。
その繰り返しをどれほど続けただろう。
途中から数を数えることさえ忘れてしまった。
外は夜だ。
晴れた夏の夜のはずだ。
けれどここはまるで時間が止まってしまったかのような空間だった。
たとえ外が曇りでも、雨でも、朝でも、昼でもなにも変わりはしないだろう。
10年前も、20年前も、日本が戦争に負けた時だって、この地下の空間はこのままの姿でここにあったのだろう。
風が、頬に触れる吐息のようにさらなる地下の存在を囁く。
自然に僕も師匠も息を殺しながら進む。
「なあ」
先を行く師匠が頭をこっちに向けもせずに言う。
「この家ってさあ。どっからも入れなかったよな」
「はい」
応えながら、(戸をぶち破らせたのは誰だよ)と心の中で毒づく。
「この家を放棄した人間たちは、どっから出たんだ」
ああ。
そんなこと、今は忘れてしまっていたい。
ゾクゾクと嫌な震えが背中を通り抜ける。

550 :古い家   ◆oJUBn2VTGE:2008/06/29(日) 01:19:56 ID:9x5Yw4U+0
でも確かに、かんぬきだかつっかえ棒だかは、すべて内側からだった。
現代のように外から開け閉めできるような鍵はない。
では、戸締りをした最後の一人はいったいどうやって外に出たのか……
まるですべてが、この廃墟の中の住人の存在を示しているようじゃないか。
それはつまり、この階段の行き着く先に、「それ」がいるということだ。
僕は息を飲みながら足を動かし続け、早く階段の先の壁が尽きることを半ば望み、そして半ば以上、恐れていた。
高すぎる蹴上に頭がガクガクと上下に揺られ続け、意識が少しずつ朦朧としてくる。
終わらない階段は麻薬のように僕の脳を冒し始めているのかも知れない。
どこまでも深く降り続ける感覚が、どうしようもなく心地良くなってくる。
足を踏み出すたびに階段の床が軋み、壁が軋み、天井が軋む。
懐中電灯の光に、パラパラと振ってくる埃が小さな影をつくる。
きっと身体中真っ黒になってしまっていることだろう。
眼下に師匠の頭が揺れている。
試しに階段を一段一段数えてみる。
……50を越えたあたりでやめてしまった。
ふと、子どものころ体験した祖父の家の土蔵の地下のことを考える。
ひょっとすると僕も師匠も、いつの間にか死んでいるのかも知れない。
どこまでも深く降りていく狭い階段に、”いつ”がその瞬間だったのか気づきもしないで。
まるでこの階段自身が呼吸しているかのように、風がかすかな唸り声を纏って身体をすり抜けていく。
誰も何も喋らなくなった。
もう上がどうなっているか確かめようなんて気は起こらない。
ひたすら、下へ。下へ……
気持ちが良い。底なんてなければいいのに。
「あ」
師匠の声が僕の意識を覚醒させる。

551 :古い家   ◆oJUBn2VTGE:2008/06/29(日) 01:22:07 ID:9x5Yw4U+0
折り返しの壁に沿って身体を反転させようとした師匠が立ち止まって右側を見ている。
僕もその横から首を伸ばして、懐中電灯の光の先を見る。
階段はもう無かった。
四方を壁に囲まれた窮屈な板張りの廊下が水平方向に伸びている。
息を潜めながら師匠がゆっくりと足を踏み出していく。
僕は眼を閉じてしまいたかった。
それでも師匠の背中に隠れるように後を続く。
懐中電灯の丸い光が、朽ち果てたような木戸を闇の中に照らし出す。
「気をつけろよ」
そう囁きながら師匠が軽く左手で押す。
キィ
という音とともに戸は奥へ開いていった。
「なんだここ」
師匠がすり足で慎重に中に足を踏み入れる。
そこは畳敷きの部屋だった。
八畳間くらいだろうか。
師匠が8の字に波打つように懐中電灯を動かし、部屋の中を少しづつ照らしていく。
背の低い和箪笥が壁際にぽつんとあるのが見えた。
そしてその隣には錆付いた燭台。
壁の表面の一部が崩れて、土くれが床にぽろぽろと転がっている。
殺風景な部屋だった。
人の気配はない。
生活の気配も。
畳からは黴の匂いが立ち込めてくる。
天井には蜘蛛の巣。
地下に部屋があると知った時点で、座敷牢のような所を想像していた僕はむしろ心地の悪いズレのようなものを感じた。
まるでこの家の住人の一人にあてがわれた、ただの部屋のような佇まいだったからだ。
あの長い階段さえなければ。

552 :古い家   ◆oJUBn2VTGE:2008/06/29(日) 01:25:55 ID:9x5Yw4U+0
ふいに師匠の呼吸が止まった。
僕の頬を生暖かい風が撫でていく。
時が止まったように、風の吹いてくる方向を師匠は見つめている。
正面の壁に、四角く刳り抜かれた穴がある。
両手を広げたくらいの幅のその穴の外周には木で出来た枠がある。
窓だ。
そう思った瞬間、身体の中を無数の手が這い登っていくような気持ちの悪い感覚に襲われる。
窓には格子戸がかかっている。
その格子と格子の間の狭い隙間から、向こうの景色が微かに覗いている。
師匠がゆっくりと近づいていく。
揺らめく懐中電灯の光が、格子とその隙間とに妖しい縞模様を映し出している。
師匠が窓辺に立って、ゆっくりと息を吐く。
僕も何かに魅入られたように足を運び、師匠の隣に並ぶ。
格子の隙間から風が入り込んできている。
その向こうには、暗い空間が広がっている。
暗いけれど、闇ではない。
遠くに黄色く光る街灯がぽつんと立っている。
静かな畦道が横に伸びている。
黒々とした山なみがその果てに見える。
蛙の鳴き声がかすかに聞こえる。
いったいここはどこなんだ?
応えるものはなにもなく、ただ朧夜の底の光景が僕らの前にあった。
畦道の向こうから、揺れる明かりが近づいて来るのが見える。
わずかに見下ろす。ここは地面よりも少し高い所にあるらしい。
明かりとともに畦道をやって来る人影が見えた。
ここからでは遠くて、人形のように小さい。
ああ。近づいてくる。

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